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ニューモデル 2019.5.20

試乗 1954年式 デイムラー・ドーファン 英国上流階級の悲喜こもごも

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もくじ

ー 暗い1950年代で異彩を放ったデイムラー
ー ゴシップと社会情勢に苦しんだ経営
ー 1台限りのフーパー製コーチビルド
ー 本格的なレストアで甦ったボディライン
ー 1950年代としては先進的な装備類
ー いまは安心できるオーナーのもとに

    なぜそんなデザインに? 奇妙なインテリアのモデル 17選 前編

暗い1950年代で異彩を放ったデイムラー

デイムラーのエンブレムを付けたジャガーが製造されていたのは2007年までで、それから現在に至るまでデイムラーのブランド名は聞くことがなくなってしまった。これから復活するのは難しいかもしれない。仮に復活したとしても、60歳以下のリタイア前の世代にとっては、あまり意味を持たないかもしれないけれど。何か理由がない限り聞くことすらない、2019年のデイムラーに対する扱われ方は、1950年代のそれとは対照的といえるほど異なっている。

ノラ・ドッカー婦人と、フーパー社の架装による星が散りばめられたような美しいデイムラーのショーカーは、1951年以来、アールズコート・モーターショー(英国国際モーターショー)には欠かせない名物だった。上品とはいえない富裕層を好ましく感じないひとも多かったが、戦争時代の締め付けられた暮らしに疲れていた一般市民は、ノラの持ち込むクルマに興奮したのだ。純銀製の魔法瓶とトカゲの革で装飾されたマニキュアセットなどは、その象徴のような存在であり、セントジェームスにあったコーチビルダー、フーパー&カンパニーのオズモンド・リバーズが手がけたハイカラなボディラインに、多くのひとの目が奪われた。

中でも強く注目を集めたのが、ボディの塗装。1951年にお披露目されたショーカーには、紋章を作る職人によって、7000粒にも及ぶ純金の星々が、ボディ側面に埋め込まれていた。デイムラー社の経営者だったバーナード卿の妻、ノラ・ドッカー婦人は、緊縮の雰囲気があふれる時代への対位法的手法として、極めて豪奢なクルマの存在が必要だと考えていたためだ。

工場からのスモッグで色彩を失いグレーに染まった街、配給に頼る暮らし、爆撃とポリオなどの疫病。今よりも良い暮らしを夢見ることを許してくれる、象徴のようなものだったのかもしれない。またノラ婦人は、デイムラーというブランドを広く認知させる、費用的にも効果的な手法だとも考えていた。ファッショナブルでラグジュアリーなことに対する反対的な意見が、弱まると思っていたのだろう。

ゴシップと社会情勢に苦しんだ経営

悪趣味ともいえたノラ婦人だが、不思議と流行のようなものの匂いを嗅ぎつける、勘は優れていた。より安価で小ぶりな、当時1066ポンド(15万円/現在の価値で約400万円)を価格を付けていたサルーン、デイムラー・コンクエストは、ノラ婦人が旗振り役としてリリースされ、その魅力が広く知られるようになる。しかし実際は、クルマそのものよりもドッカー夫妻のゴシップネタの方が、当時のマスコミの興味を引き立てる内容だったのだが。

1952年、モンテカルロのカジノで開かれたチャリティ公演に出席したドッカー夫妻だったが、ステージ内容の悪さに大声で不平を漏らしたことで、会場から追い出されてしまう。その後、カプリ島の港湾警察との対立問題も引き起こす。休日に開かれたその裁判のために、バーナード卿は弁護費用に2万5000ポンド(355万円/現在の価値で約9500万円)を支払い、ミッドランド銀行の取締役会の肩書きを失った。その中で、ノラ婦人に対する風当たりは一層強くなった。精肉店に生まれた彼女は、元ダンスホステスで、過去に2度も裕福な男性と結婚し、その度に未亡人となっていたのだ。

一方で1953年当時、高級品を購入した時にかかる66.6%もの税金の影響で、デイムラーの販売は苦戦していた。状況は深刻で、デイムラー・リージェンシーの生産は停止され、デイムラー・コンソートの価格は大幅に引き下げられた。そもそも1950年代のデイムラーのモデルには一貫性がなく、実勢的な顧客数に対して、モデル数もボディスタイルも数が多すぎたことも理由にはあるだろう。

さらに、デイムラーの本社のあったコベントリーの憂鬱な雰囲気に水を指したのが、皇室へ車両を納入する独占的な立場をデイムラーが失ったこと。新しく女王についたクイーン・エリザベスは、ロールス・ロイス・ファントムIVを選んだのだ。これらのことが響き、2シーター・クーペモデルのシルバーフラッシュのアールズコート・モーターショー出品は見送られた。

そのクルマには、赤いクロコダイル・レザーのダッシュボードに、純銀のバニティーケースが設えられていた。マスコミはいつもの通り記事にしたが、ドッカー夫妻がその年に追加で出品することにした、今回紹介するランチェスター(デイムラー)・ドーファンへも、影を落としてしまった。

1台限りのフーパー製コーチビルド

ドーファンという名前を使用した理由は定かではないが、デイムラー車に共通する、堂々としたモデル名というテーマでは一貫している。「ドーファン:Dauphin」とは、フランス語で王位の法定推定相続人を指す。1930年にデイムラーの兄弟会社だったBSA社(バーミンガム・スモール・アームズ)がランチェスター社を取得すると、1946年に発表した冴えないミドルクラスに、その名前を与えていた過去がある。

今回ご紹介するドーファンは、ランチェスター14シャシーを強化し、フーパー製の美しいクーペボディを搭載した4シーターモデル。エンジンは2.4ℓのツインキャブレターを備えたデイムラー製6気筒を搭載している。ボデイ後半がエッジの効いた「エンプレス(女王)・ライン」と呼ばれるスタイリングで、素材はアルミニウムが用いられている。

ルーカス製のヘッドライトが納まるフレアフェンダーはデイムラー・フーパー/ドッカーのトレードマークだったが、デイムラー・スターダストの縮小版のようにも見える。このクルマには贅沢な細工の入った塗装はなく、ブルーとグレーの味わい深いツートンボディにコノリーレザー・バウモルとの組み合わせに留められている。ノラ婦人はボディカラーになかなか納得せず、ボディの架装していたフーパー社には沢山のメモが残っている。ちなみにフーパー社の設計番号は8396となっていた。

当時の価格は4000ポンド(56万円/現在の価値で約1500万円)もしたため、ドーファンのオーナーはなかなか現れなかった。1903年に創刊された「The Motor」誌には、好意的な記事が掲載されたものの、アールズコート・モーターショーではまったく受注がなかった。ランチェスター・ドーファンが製造されたのは1台限りで、イングランドの北部のリーズを経由して、アメリカのオーナーへと左ハンドル車が納入された。ドーファンと同じ基本ボディ形状はコンクエスト・センチュリーにも流用されていたが、ヘッドライトの形状で異なっている。

恐らくランチェスターという名称が廃止されたためだと思われるが、シャシー番号70007のクルマは工場へ戻り、デイムラー・ドーファンとして焼き直しされる。さらに1954年にコベントリーのナンバー「OVC 444」を取得し、ノラ・ドッカーの姉、バーニスと結婚したディック・スミスの個人所有車になった。ディックは当時、デイムラーのジェネラル・マネージャーを努めていた。

本格的なレストアで甦ったボディライン

ドッカー一族の活劇は、この辺りでエネルギー切れとなってくる。BSA社の理事や株主も、横暴に我慢できなくなったのだろう。最後の浪費となったのは、8000ポンド(113万円/現在の価値で約3000万円)近くを費やした、オートクチュールのガウンをしまうワードローブ。ダイムラー社のクルマがスパンコールで描かれたもので、パリでのプロモーション・イベントのためにノラ夫人が特注したものだった。マダムからの経費としての請求書を内国歳入庁(税務庁)が却下すると、BMAの理事たちはノラ婦人へ請求書を発行し、彼女の夫、バーナード卿を取締役会から外す手続きに入った。

当時目新しかったTVを利用した広告も交えて理事会との戦いを繰り広げたが、バーナード卿は1956年に席を奪われ、ディック・スミスはその措置に講義してジェネラル・マネージャーを辞任。1954年式のデイムラー・ドーファンも失ってしまう。

デイムラー・フーパー/ドッカーのフルサイズモデルと同様に、この右ハンドルのドーファンも自動車市場からは一時姿を見なくなる。ブライアンEスミスの著書、「デイムラー・トラディション」では、1970年にデイムラー&ランチェスター・オーナーズクラブでのミーティングに、ドーファンが素晴らしいコンディションで姿を表したと記述がある。

その後、ディック・スミスが所有していたナンバー「OVC 444」のクルマは、ラブ・アンド・ピースなヒッピーにより、サイケデリックな塗装が施された後、バーミンガムのスクラップヤードで放置されることになった。そこから先の展開は明らかではないものの、どこかのタイミングでデイムラー・ドーファンは救い出され、英国東部のシェアーネスに住む医者のために、ボディを下ろしての本格的なレストアが施された。

ロールス・ロイスのコーチビルダーだったマリナー・パークウォード社は、英国でも最古の部類に入るコーチビルダー、フーパー社による官能的なボディラインに感銘を受けただろう。1930年代から変わることがなかった、気取ったデザイン様式から抜け出すことができなかった、フォーマルなスタイルではあるけれど。

1950年代としては先進的な装備類

復活したこのドーファンだが、4870mmを切る当時としてはコンパクトな全長だから、大きくフェンダーが膨らんだスタイリングが大げさに映る。しかし、仕上げ品質は素晴らしい。メープルかブリーチ・ウォルナットか、いずれにせよ美しい木目が用いられたドアのインナーパネルや、ダッシュボードから続くキャビネットには目が奪われる。

細い鉄線のスポークで支えられる細身のステアリングホイールは巨大だが、パワーステアリングはない時代だから、駐車時や低速コーナーではそれなりの筋力が要求される。緩くカーブしたフロントガラスは、同じ時期にアールズコート・モーターショーで発表された、コンクエスト・ロードスターからの流用品となっている。

ガソリンが残り少なくなった時に補助的に使うフュエールリザーブ・スイッチがダッシュボードに備わり、まだガソリンスタンドの数が少なく、営業時間も安定的ではなかった時代を物語る。一方で、フロントガラスのウォッシャーやフロントシートのリクライニング機能など、現代では一般的な装備が整っていることは、ドーファンが上流向けモデルだったことの証。

前席のサイドガラスはパワーウインドウになっており、1953年当時は相当な贅沢装備だったに違いない。リアシートには2客のバケットシートが備わり、太く平たいCピラーのおかげで、プライバシーも守られている。1950年代では、洗練された移動手段以外、何物でもなかったと思う。

エンジンは直列6気筒で、ノイズも加速も控えめなものだが、車重は1580kgほどあるから仕方ないだろう。興味深いのがプレセレクター機能を備えたトランスミッション。オートマティックが英国で一般化するのはまだ先の時代ではあったが、デイムラーは4速ミッションに「セルフチェンジャー」レバーを装備させていた。賢い流体フライホイールによって、アイドル状態からエンストすることなく、発進が可能だった。

いまは安心できるオーナーのもとに

足元の左側のペダルはクラッチではなく、シフトチェンジのためのものだと意識していれば、デイムラーを普通に運転することができる。発進時には1速か2速を分度器のようなセレクターで選び、左のペダルから足を離してハンドブレーキを緩めれば、ドーファンは進み始める。クラッチが滑るような感覚はない。

走り始めたら、次に入れたい段数をレバーで選択し、変速したいタイミングで左側のペダルを踏み込んで離すと、その段数に変速される。一度慣れてしまえば、シフトアップもシフトダウンも、思い描く好みの速さでスムーズに行うことができる。

ただし、ペダルを充分強く踏み込まなかった時に起きる、通常よりもペダルのキックバックの大きい「ミス・ニュートラル」には気を付けなければいけない。当時のデイムラーの他のモデルと同様に、ドーファンも王侯貴族が楽しんだクルマ。かつての偉人が楽しんだように、ゆっくり走るのが良いだろう。

最後になったが、現在のオーナーは英国西部のサマートンに住むポール・チェンバレン。デイムラーのコレクターである彼は、10年ほど前にBCA(英国カー・オークション)でドーファンを見つけ、手頃な価格で入手したそうだ。恐らく1万から12000ポンド(142万~170万円)程度で手に入れたと思われる。「スタイリングが気に入りました。クルマが、わたしをお家に連れて行ってと話しているようでした」 と振り返るチェンバレン。浪費癖のなさそうな、安心できるオーナーの手に渡って良かったと思う。

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(AUTOCAR JAPAN マーティン・バックリー)

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