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ニューモデル 2018.11.10

知っていたらマニア? 忘れ去られたドイツ車ブランド31社 前編

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ドイツメーカー いくつご存知?

高品質を守りつつ手に入れやすい価格帯のモデルを多く作り出すことで、いまやドイツメーカーはより身近なブランドとなっている。だが、その存否にかかわらずジャーマンブランドを12あげるとなれば、その半分にも満たないうちに名前が出てこなくなるに違いない。

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だが、実際には戦前から戦後にかけて、自動車世界での成功を目指しながらも、夢半ばで倒れた数多くのメーカーが存在していた。これからご紹介するそんなメーカーのうち、いくつご存知だろうか?

アンフィカー(1961年~1968年)


これまで、水陸両用車のヒットモデルを創り出すという挑戦が何度か試みられている。多くはまったくお話にならなかったが、このクルマは違う。トライアンフ・ヘラルド社製エンジンを積むハンス・トリッペル設計のアンフィカー770の販売台数は約4000台に達している。その多くは米国オーナーの下へと嫁いだが、一部は英国を含む欧州各地でも販売された。

ボルクヴァルト(1924年~1961年)


1950年代、プレミアムなドイツ製モデルが欲しければ、選ぶべきはボルクヴァルトだった。スタイリッシュなサルーンモデルやクーペ、エステートが存在したが、もっとも有名なのは写真の1954年製イザベラだろう。

1924年に自身の名を冠したクルマを作り始めたカール・ボルクヴァルドだが、戦前にはハンザにロイト、ゴリアトの各ブランドを買収したり創り出したりしている。

戦後、各ブランドの個別経営によってコスト上昇を招いたことがボルクヴァルト失敗の原因とも言われており、結局オペルやフォルクスワーゲンといった多くのモデルをもつブランドと肩を並べることは1度もなかった。

1961年、ボルクヴァルドはその歴史に幕を閉じ、カール・ボルクヴァルトもその2年後にこの世を去っている。しかし、2008年には彼の孫となるクリスチャンが中国メーカーの支援を受けてブランドを再興するとともに、中国でのSUV生産に乗り出している。

ブルッチェ(1952年~1958年)


1956年、自身の設計したクルマが危険だという理由で訴えられるまで、エゴン・ブルッチェは史上もっとも小さく、もっともシンプルなマイクロカーの生産を行っていた。ほとんどのブルッチェが単気筒エンジンを積んだドアのない3ホイーラーだったが、どのモデルも大成功とは言えなかった。

6年間でブルッチェは11ものモデルを創り出したが、その合計生産台数はわずか81台に留まる。写真は1956年のブルッチェ・ロレーラだ。

チャンピオン(1948年~1954年)


スーパーチャージャー付2ストローク単気筒200ccエンジンをリアに積んだ低価格な輸送手段として、1948年にチャンピオンは250を発売した。1951年には2気筒398ccエンジンを改良されたサスペンションと、巻き上げ式キャンバストップを持つボディに積んだ写真の400がラインナップに加わっている。

だが、400がライバル視していたヴォルフスブルク発のフォルクスワーゲン・ビートルが、同じ価格でより優れた実用性を実現していたために、チャンピオンが成功することはなかった。

1952年の破綻後、1955年にオートバイメーカーのマイコにすべての事業が買い取られるまでの間に、2度の復活劇が試みられた。

DKW(1928年~1966年)


アウディ、ホルヒ、ヴァンダラーとともに1932年結成のアウトウニオンの源流となった1社だが、1920年代のDKW(Das Kleiner Wunder/The Little Winder:小さな奇跡)は世界最大のオートバイメーカーであり、1928年には最初の2ストロークエンジンを積んだクルマの車両生産を行っている。

第2次世界大戦前、DKWは手ごろな小型車の販売に力を入れており、戦後、欧州初の前輪駆動モデルを送り出したメーカーとなった。

しかし、1958年にメルセデス・ベンツによって買収されたのち、1964年にはフォルクスワーゲンへと売却され、1966年までにはブランドとしてのDKWは休眠状態となり、その後のモデルにはすべてアウディを名乗ることとなった。写真は1953年のDKW 3=6だ。

EMW (1945年~1956年)


第2次世界大戦前、BMWの主力工場は旧東ドイツのアイゼナハにあり、戦後ソビエト連邦によって国有化された後も、1952年にBMWが法的措置に訴えるまで同社のモデルを作り続けていた。

BMWの提訴を受けて、ブランド名をEMW(Eisenach Motorenwerk)へと変更したが、1956年に工場を一旦閉鎖しヴァルトブルクの生産拠点へと姿を変えるまで、ほぼBMWそのままのモデルを作り続けていた。

興味深い事実として、1953年のドイツGPに参加しており、わずかの期間だが東側からグランプリに参加した唯一のメーカーでもある(レースは12周しただけでリタイアに終わっている)。写真のモデルは1949年のEMW 340だ。

エレクトロマシーネンバウ(1950年~1960年)


エレクトロマシーネンバウはフルダを拠点としており、同社唯一のモデルがフルダモービルだった。

3ホイーラーのリアに単気筒エンジンを積んだ初期のフルダモービルは、アルミニウム製のボディパネルと木製フレームを特徴としていた。その後登場したモデルのボディはすべてスチール製となったが、1957年にはさらにグラスファイバー製ボディへと変更されている。

リアトレッドが狭小ではあるものの4つのタイヤをもつカブリオレが登場した時点で、ライセンス生産が行われたことで、1960年には工場が閉鎖されているにも関わらず、最後のフルダモービルが工場を後にしたのは1969年のことだった。写真は1954年のフルダモービル200だ。

グラース(1955年~1969年)


グラースは1895年に農業機器のメーカーとして誕生した。1951年までには同社初のオートバイ(ゴッゴ)を創り出しており、1955年には最初の4輪モデルとして、写真のゴッゴモービル・サルーンが登場している。

2ストローク2気筒エンジンには、247cc、296ccと395ccの排気量が存在した。のちに同じエンジンを積んだクーペとバンも登場している。

1.3ℓと1.7ℓエンジンを積んだクーペモデルにより高級化を進め、1966年には2.6ℓV8エンジン搭載のGTが誕生したが、1966年にBMWに吸収されたことで、これがグラース最後のモデルとなった。

ゴリアト(1928年~1961年)


勤勉なカール・ボルクヴァルトは1928年にヴィルヘルム・テクレンブルクとともにゴリアトを設立し、当初は3輪の小型トラック生産を行っていた。

1931年には単気筒エンジンを積んだ3ホイーラーのパッセンジャーモデルとなるパイオニアを発売し、1950年にはクリーンなルックスのクーペモデルとサルーン、カブリオレとエステートをラインナップにもつ2ストローク2気筒688ccエンジンを積んだGP700が登場している。

1957年からはゴリアトも4ストロークエンジンを採用しているが、早くも1958年にはその歴史に幕を下ろしている。写真は1957年のゴリアト1100だ。

グートブロート(1926年~1954年)


ここで紹介している多くのブランド同様、グートブロートの歴史は1926年のオートバイ生産に始まる。ヴィルヘルム・グートブロートによって設立されたこのメーカーは、彼が1948年に亡くなると、息子のワルターが引き継ぎ、写真のシュペリオールに代表される2ストロークエンジンを積んだ小型モデルの生産を開始した。

グートブロートは1954年にその歴史に幕を下ろしたが、1975年から1990年にかけて同じ名をもつメーカーがドイツ国内で小型トラクターなどを生産していた。

ハノマーグ(1925年~1952年)


1835年、ゲオルグ・エゲストルフが「Eisen-Giesserey und Maschinenfabrik Georg Egestorff」という珍妙な名前で、農業機器と蒸気機関車を生産するメーカーを立ち上げた。その後、1871年には社名はさらに長くなり、「Hannoversche Maschinenbau Actien-Gesellschaft vorm. Georg Egestorff, Linden vor Hannover」へと変更されたが、これによりハノマーグと呼ばれることになった。

1905年には蒸気自動車が、その20年後には、500cc単気筒エンジンを積んだ低価格なガソリンモデルの2/10が誕生している。1939年の開戦までにハノマーグからはさらに多くのモデルが登場しているが、戦後、新型モデルの計画が失敗に終わると、トラックとトラクターの生産に注力したのち、破たんを経て他の企業に買収されている。写真は計画で終わった1953年のプロトタイプだ。

ハンザ(1906年~1961年)


カール・ボルクヴァルトはどこにでも登場するが、ここでも再び彼の出番だ。ハンザはトラックと低価格モデルのメーカーとして1905年に誕生したが、1914年にはロイトと合併してハンザ-ロイト-ヴェルケAGを結成している。

1929年にはボルクヴァルトグループに組込まれており、それまでにハンザは上級市場への進出を果たしていたにも関わらず、1937年にはトラック専業となっている。

ハンザはボルクヴァルト製モデルの車名となり、それは1961年にボルクヴァルトの命脈が尽きるまで続いた。写真は1957年のハンザ1100だ。

ハインケル(1955年~1958年)


1922年から1945年にかけて、ハインケルは航空機業界では名の知られた存在だったが、1945年に終戦を迎えると、新たな製品を創り出す必要に迫られた。

その結果、1952年にはオートバイメーカーとして再出発を果たし、1955年には写真のマイクロカー、カビーネを生み出している。

このクルマはBMWのイセッタ同様のコンセプトで、フロントにひとつだけ設置されたドアと、リア1輪(1957年以降は狭小トレッドのリア2輪となった)の、4ストローク単気筒175ccエンジンを積んだモデルだった。

ハインケルは1958年に自動車生産を終えているが、カビーネはトロジャン200として、1965年まで英国で生産が続けられた。

ハインケルは航空機業界に復帰し、再編されたドイツ空軍向けにロッキードF-104 スターファイターのライセンス生産を行ったが、現在ではエアバスグループの一部となっている。

ホルヒ(1899年~1939年)


1896年から1899年までカール・ベンツの工場で責任者を務めたアウグスト・ホルヒだが、自身の手で自動車を創り出すことを決意し、1901年には最初のモデルを送り出すことに成功している。

しかし、経営は順調とは言えず、1909年には経営陣によってホルヒ自身が社を追われることとなった。そのため、ホルヒはアウディという名で新たな自動車メーカーを立ち上げたが、1932年にはホルヒとともにアウトウニオン結成に参加している。

ホルヒは1939年まで自身の名を冠した車両生産を継続していたが、戦後、旧東ドイツにあったツヴィッカウ工場はソビエト連邦の管理のもとでトラック生産を行っている。

アウトウニオングループのなかで休眠状態となっていたホルヒのブランド名は、現在ではフォルクスワーゲンが所有している。

2018年9月には、ホルヒがアウディA8リムジンのための、高級サブブランドとして復活するとの報道が行われた。写真は1937年のホルヒ853 A スポーツカブリオレだ。

IFA(1948年~1956年)


Industrieverband Fahrzeugbau/Industrial Association for Vehicle Construction(車両製造工業組合)は、自転車からオートバイ、自動車、バンやトラックまで、すべての乗り物を生産する企業連合体として旧東ドイツで誕生している。

戦前のDKW製モデルをベースにIFAが生産する車両は時代遅れだったものの、共産主義を奉じる当時の東ドイツではあらゆるクルマが貴重品であり、そのため1956年にIFAブランドがヴァルトブルクとツヴィッカウに替わるまで生産されたF8やF9(写真)は人気モデルだった。

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(AUTOCAR JAPAN 編集部)

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