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スポーツ 2019.3.3

国産セダンがポルシェの前を走った日「スカイライン」モータースポーツ列伝

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日本のモータースポーツ黎明期から君臨

 国産のスポーティカーで、歴代モデルがモータースポーツで活躍したクルマと言えば、やはりスカイラインだろう。

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 なんといっても、後に日産自動車に吸収合併されるプリンス自動車工業が、富士精密工業を名乗っていた時代の1957年に誕生した初代モデル(ALSI系)のスカイラインが、2年後の59年に、国内最高位のラリー競技として始まった「第1回 日本アルペンラリー」に参戦。見事に総合優勝を飾ったのであった。

 そして63年に登場した2代目モデル(S50系)からはレースにも参戦。数々のタイトル獲得と優勝を飾ってきている。先ずはスカイライン列伝のパート1として、S50系と3代目=C10系の活躍を振り返ってみよう。

第1回日本グランプリの惨敗から本気に取り組む

 国内初の本格的な自動車レースは、1963年に鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ」。自工会との打合せ通り、チューニングなどの支援を積極的に行わなかったプリンス勢は惨敗を喫してしまい、翌64年の第2回日本グランプリに向けて全力で臨むことになった。

 そして、64年には1600ccまでのT-Vレースでスカイライン1500が、2000ccまでのT-VIレースではグロリアが圧勝。また準備段階で同時に、より改造範囲の広いGTクラスへの参戦を目指し開発されたのが「スカイライン2000GT」だった。こちらは直4エンジンを搭載するスカイライン1500のノーズを20cm伸ばしてエンジンルームを広め、グロリア用の直6エンジンを搭載したモデルだ。

 レース前にクルマは完成したが、実際に出場するには日本自動車連盟のレース車両規則のもと、GTとして公認されることが必要。そのために急きょ100台が生産、販売されることになった。いわゆるホモロゲーション(公認)モデルであり、国内では初のケースだった。(富士スピードウェイ50周年イベントで撮影)

 スカイラインは後にR32型GT-Rが登場した際にグループAレースで勝つために、レースの車両規則を解析、最も適した排気量として「2568cc+ターボ」という、エンジン排気量の数字が導き出されたことはよく知られる。その四半世紀前から”レースに出るために誕生”したのがスカイラインのDNAだったのだ。

 ホワイトの4ドアセダンは65年式のスカイライン2000GT。こちらは3連のウェーバー・キャブを装着し、リアトランクボディ上部後ろに赤い文字でネームが書かれた“赤バッジ”の愛称で知られる2000GT-Bである。

神話はポルシェを相手にバトルから生まれた

 こうして誕生したスカイライン2000GTは、第2回日本グランプリでデビュー。レース車両は2座(市販仕様は3座)のスポーツカーだが、排気量1500ccとアンダーパワーなフェアレディ1500を相手に楽勝となる、はずだった。ところがここに手強いライバルが登場する。

 それは、当時トヨタのエースドライバーだった式場壮吉が個人エントリーしていたポルシェ・カレラGTS、通称“904”である。4ドアセダンのノーズを伸ばしたスカイライン2000GTに対して、904はミッドシップにフラット4(水平対向4気筒)エンジンを搭載した2シーターの準レーシングマシン(写真は同型モデル)。

 スカイラインの生みの親である桜井眞一郎さんが「エイとダックスフントの戦いだった」と呟いた、とも伝わっているが、クルマ本来のポテンシャルからすれば、到底勝負にならないほどレベル差があったのだ。

 ところが2回目の予選で式場ポルシェはクラッシュしてしまい予選3番手。スカイライン2000GTの生沢徹がポールポジションを奪ったのである。しかし、突貫作業でマシンを修復した式場はレース直前にグリッドに着く慌ただしさだったが、走り始めればポテンシャル差は明らか。あっという間にトップへおどり出る。

 ところが7周目、バックマーカー(周回遅れ)が式場ポルシェの前に出現して一瞬スピードの鈍ったところに生沢スカイラインが追いつき、ヘアピンでパス。そのままトップで生沢のスカイラインが式場のポルシェを従えてホームストレートに戻り走り抜けていったのだ! スタンドの観客は大喝采。その後は式場が生沢を抜き返し、そのまま逃げ切って優勝したのだが、1周だけトップに立ったことでスカイライン神話が始まったという。

 写真上のブルーに39番の白いゼッケンサークルが映えるレース仕様は、2015年に座間の日産ヘリテイジコレクションで撮影したもの。生沢がポルシェを抜いたマシンではないが、当時のワークス車でバリバリに速かった。ステアリングセンターに貼られた、左上がリバース、左下がオーバードライブとなるシフトパターンに注目。

名機”S20″を搭載したGT-Rが登場

 1966年にプリンスは日産に吸収合併され、以後は日産スカイラインを名乗ることになる。そうした状況下でスカイラインは68年8月、2度目のフルモデルチェンジを受けて3代目(C10系)に移行。2ヶ月後に直6SOHCエンジンを搭載した2000GTが登場したが、翌69年の2月に“真打ち”が登場する。

 それが純レーシングマシンのR380が搭載していたGR8型直6エンジンを、市販車用に再設計したS20型直6DOHCエンジンを搭載する「スカイラインGT-R」だ。

 この時、2000GTは4ドアモデルのみがラインナップされていたから、GT-Rも4ドアモデルとして登場。1年半後の70年10月には、ホイールベースを70mm短縮した2ドアハードトップも登場した。GT-Rが4ドアから2ドアハードトップへと移行したのである。

 シルエット的には華奢なイメージも漂うが、リアのオーバーフェンダーがただものでないことをアピール。スカイラインGT/GT-Rと言えば丸テールが連想されるが、この代では一対の長方形テールライトとなっている。先代GT-Bの“赤バッジ”のイメージも踏襲された。

ホイールベースの短縮でハンドリングを改善

 69年5月、4ドア版GT-Rのデビューレースでは、ワークスドライバーの参戦が許されず、若手が何とか優勝するも後味の悪さが残った。だが、その後はワークスドライバーが連戦連勝。熟成が進んだことで若手のプライベートも安定して好成績を残すようになった。

 70年10月にハードトップモデルが登場して以降、ワークスドライバーはこちらの開発と熟成に専念。70年には高橋国光が4ドアGT-Rで全日本選手権をパーフェクトで制する離れ業を見せたが、71年には長谷見昌弘が2ドアハードップGT-Rで、やはり全日本選手権を制している。ここまでライバル不在の独り勝ちだったが、71年の後半からはマツダのサバンナの「ロータリー軍団」が力をつけてきて毎戦のように好バトルが展開されることになった。

 主戦場は富士スピードウェイ。30度バンクを使った右回りの6kmコースではGT-Rが優位を保っていたが、左回りの4.3kmコースではロータリー勢が肉薄。そんな繰り返しの末、72年3月に行われた富士グラチャンのサポートレースで高橋国光が通算50勝をマークしたのである。

 ちなみに、この勝利数には諸説あるが、ホイールベースが短縮されハンドリングが改善されたGT-Rの2ドアハードトップ仕様が、究極のレーシングカーであったことは紛れもない事実なのだ。(濃緑の幅広ストライプに白いゼッケンサークルを重ねた8号車は、71年日本GPの長谷見仕様。ブルー&ホワイトに塗り分けられた15号車は、72年に50勝をマークした時の国光仕様)

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(Auto Messe Web 『Auto Messe Web編集部』)

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