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業界ニュース 2019.3.15

【星野一義】1980年代「強力なライバルがひしめく中、トップドライバーの座を不動のものに」【日本一速い男の半生記(4)】

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「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:SAN’S、モーターマガジン社)*タイトル写真はマーチ 79Bニッサンで参戦し優勝。この年、FPで3勝してチャンピオンを獲得する(1981年5月10日全日本FP選手権Rd3レース・ド・ニッポン筑波)。

中嶋 悟がチームメイトに
70年代末から80年代にかけては、星野が30歳を越えて成熟した走りを見せるようになった時期。同時に強力なライバルとしのぎを削っていた時期でもある。ベテラン・高橋国光の速さは衰えていなかったし、長谷見昌弘、松本恵二といった同世代のドライバーも侮れない力を見せていた。

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さらに星野に続いてヒーローズレーシングに加入した後輩・中嶋悟や、続々と日本にやって来たG・リースをはじめとする外国人ドライバーたち…。星野はそんな状況の中、1979年~83年と5年連続でF2シリーズ2位と、速さを見せながら、一歩タイトルに手が届かない。

富士GCでも、79年以降は苦戦が続き、なかなか勝ち星を挙げられなかった。しかし、82年は最終戦でのシーズン初勝利によって久々のタイトルを手にして、その速さが衰えていないことを証明する。

また、この時期並行して参戦していた、F2とF3の中間的なマシンで争われていた全日本FP(フォーミュラパシフィック)でも、81年~82年に連続チャンピオンを獲得する。しかし82年限りで全日本FPシリーズは消滅してしまうのだった。

80年代初頭、スーパーシルエットで一躍脚光を浴びる
そんな80年代初頭にあって、星野の参加するレースの中で最も注目を集めていたのが、富士スーパーシルエットレースだった。富士GCのサポートレースのひとつで、フェアレディZやサバンナRX-3といった大排気量マシンが戦っていたスーパーツーリングレースに代わって79年にスタート。

当時のヨーロッパを中心に盛り上がっていたグループ5規定の市販GTカーの大改造マシン、ポルシェ935に代表されるいわゆる「シルエットフォーミュラ」によるレースだ。当初はスーパーツーリングマシンがそのまま走っていたが、このレースに日産はいち早く注目して、海外レース向けに開発していたバイオレットターボを送り込む。

さらにトムスがドイツのシュニッツアー製のセリカLBターボを持ち込んだのをはじめ、オートビューレックのBMW・M1、国内のチューナーが手掛けるRX-7ベースのマシンなど、戦闘力の高いマシンが参加するようになると、次第に人気が高まっていった。

星野は当初から、この富士スーパーシルエットレースに参加していたわけではなく、81年からシルビアターボで参戦。それ以前のシルエットフォーミュラでのレース経験は、80年にシルビアでマカオGPのスーパーサルーンレースを走ったくらいだった。

そして82年になると、日産が2台の新型シルエットフォーミュラをこのレースにデビューさせる。DRスカイラインに長谷見昌弘、910ブルーバードに柳田春人。これにS110シルビアの星野を加えて、「日産ターボ軍団」として人気を集める。

3車それぞれに、いかにもシルエットフォーミュラらしいド派手なエアロパーツが目立つルックスに加えて、パイプフレームによるレーシングカー的な構造の車体、そして強力なLZ20Bターボエンジンを活かした豪快な加速、盛大にバックファイアーを吐きながら走る印象的な姿によって、レースファン以外からも注目を集めるようになっていく。

星野とシルビアターボは、F2やGCでの鬱憤を晴らすかのような走りを見せ、デビューした82年にいきなりシリーズチャンピオンとなる。翌年シーズンには、市販車のシルビアがモデルチェンジしたのに合わせて、新型のSスタイルにリファインされたマシンでも、シリーズ2位を獲得する。

その後、国際的なレースレギュレーションの変更などの影響で、83年で富士スーパーシルエットのシリーズ戦が終わり、スポット開催されたスーパーシルエットレースも84年限りで終了。

足掛け3年の短期間で日産ターボ軍団は姿を消すことになったが、多くのレースファンに強い印象を残すことになった。そしてこの日産シルエットマシンたちが、84年のNISMO設立のきっかけとなり、日産のグループCマシンでのレース活動、そしてこの後の星野のレース人生にも大きな影響を残したのは間違いないだろう。(次回に続く)

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(Webモーターマガジン Webモーターマガジン編集部)

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みんなのコメント

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  • mog*****|2019/03/15 20:11

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    「日産ターボ軍団」+「西部警察」で、日産の黄金時代だったなぁ。
  • nan*****|2019/03/15 19:39

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    またも説明不足が見られる、80年代に入ると星野は勝つ為の体制が整って来た、雑誌の連載や取材も増えて来て、豪邸の前で大改造したバイクと共に写る写真も有る。しかしながら「もっと稼ぐぞ」とのコメントもよく見られており、稼ぐ事で選手の地位を上げたいとの思いが伺える。
    また、生活も考えてホシノ·インパルも設立。運営はカワサキOBの金子氏が担当し、あくまでも星野本人は走る事だけに集中していた。
    F2ではホンダエンジンの参戦も有ったが、持ち前の闘志で対抗していた。
    82年からは例の世界耐久選手権富士Rdも開催されている。この後、またも逆境が星野の前に立ちふさがるが、これはまた次回に(笑)。
    因みに文中のバイオレット·ターボは長らく追浜ワークスで保管していた車両で四輪ディスク化等改造し、ハラダ·レーシングで70年代後半から再使用したもので後に現行バイオレットボディに変更されているので誤解無き様。
  • sa2*****|2019/03/16 05:22

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    ジェフリースとの闘いはスゴかった
    スズカのスプーンカーブは忘れられない

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