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業界ニュース 2018.10.24

日本の道路行政に要因が?日本が作り上げた「高すぎる自動車税」その歴史的背景とは

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今回は前回に続き、日本の道路行政と高額な税負担について書こうと思います。

歴史的に道路の整備が進まなかった日本

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詳細は後述しますが、結果的に日本では自動車の税負担が高額化してしまった一番の要因は日本では歴史的に道路の整備が進まなかったということでしょう。もちろん、「東海道五十三次」等の宿場町をつなぐ「街道」というのは存在しましたが、ローマ街道のように道路として舗装されていたというわけでもなく、砂埃が舞い雨が降ればぬかるみになるという酷い有様でした。

近代に入るまで日本での移動手段は徒歩が中心で、乗り物を使った移動は河川が多く海に囲まれた国土事情から、車両よりも船を使った移動が中心だったようです。意外と知られていないのですが、実は日本では明治に入るまで馬車がありませんでした。明治に入るまで日本古来の馬の品種に車両を牽けるだけの体格をもった品種の馬がいなかったのだそうです。とは言っても、日本にも車輪の付いた乗り物の文化がまったくなかったというわけではありません。

CLの読者の皆様も昔、歴所の教科書で平安貴族の「牛車」の絵を見た記憶があるのではないでしょうか?牛というと鈍重そうなイメージがあるかもしれませんが、欧州のサラブレッドと同様、日本でも足の速い牛は貴族の間で珍重され、当然速い牛を所有する事はステイタスであり、貴族が乗った牛車が並べばその場でスピードを競い合ったといいます。

当然、舗装もされてないでこぼこ道でスピードを出せば横転したり、牛車から転げ落ちたりという「交通事故」も発生するのですが、当時の貴族たちはスピードだけでなく事故で大怪我をすればそれも自慢のタネになったというあたり、今も昔も日本の走り屋のする事はたいして変わっていないようです。日本では馬のエンブレムのフェラーリよりも牛のエンブレムのランボルギーニの人気が高く、カウンタックやミウラが今も強大なカリスマ的人気を誇るのがなんとなくわかるような気がします。

政策的に途絶えさせられた車輪の文化

ちょっと話がそれてしまいましたが、日本でも車輪の文化が花開く要因がなかったわけではありません。江戸時代に入ると状況が一変します。基本都市計画を立てる場合、道はわかりやすく、碁盤の目の様な構成にし、ブロックごとに番号や記号を振り当て、通りに必ず名前があり、〇〇タウン××ブロック△△ストリート(街)□□番地という住所だけを見て、街道にそって番地をたどっていけば目的地に到着するようになっていますが、日本では道が複雑で通りやブロックに名前が振り当てられているわけでもなく町名と番地だけで目的地にたどり着くには非常に困難な地理の構成になっています。

日本でカーナビゲーションシステムが技術的に先行した最大の要因は地理の複雑さとも言われています。なぜこれだけ道が複雑になったのでしょうか。それは国土の約2/3を山林が占めていて、数少ない平地はほぼすべて田畑に充てられ、そのこまごまとした田畑のあぜ道がそのまま道路になったことがあげられます。徳川幕府になると幕府の転覆を防止するために江戸の城下町は江戸城を中心に渦を巻くように道が整備され、さらに動物に荷車を牽かせたり、車輪が付いた乗り物で人が移動する事を禁止。唯一使う事が認められたのは大八車で、これも街道での使用は厳しく制限され、また大八車で死亡事故を起こした際は打ち首になったという話もあり、車輪の使用に大きく制約がかかったことで事実上日本では明治になるまで車輪の文化は途絶える事になります。

参勤交代の導入により街道の整備自体は進みますが、基本は徒歩。乗り物と言えば大名が乗る駕籠くらいのもので(つまり乗り物は贅沢品)路面が舗装されることは無く、箱根や大津街道の一部が石畳になったにとどまります。

近代化と工業化に取り残された日本の道路

明治維新により徳川幕府は終焉を迎え日本も近代化の道を歩むことになり、長らく途絶えていた車輪という交通手段が復活。皇族や華族の移動手段として西洋式の馬車が導入され、庶民の移動手段として人力車が登場します。ちなみに人力車は日本から世界中に伝播し、現在も人が牽いたり自転車で動くタクシーは世界各地で「リクシャ」「リキシャ」と呼ばれ、日本語由来の世界語となっています。動力機関を用いた乗り物として陸蒸気と呼ばれた蒸気機関車による鉄道が1872年(明治5年)に横浜、品川間に開通し、その後全国で鉄道の敷設が始まり20世紀初頭にはほぼ全国に鉄道網が広がり、昭和初期にはすでに特急列車を運行するまでになりました。

一方、日本に自動車が伝わったのは諸説ありますが1898年(明治31年)のパナール製のガソリン自動車と言われていますが、結局買い手が付かずに終わり、日本で最初のオーナードライバーと言われているのは、1901年に輸入したロコモビルを愛用し通勤に使用したという、北海道のじゃがいも(男爵いも)の普及に貢献した「川田龍吉男爵」。ヨーロッパ外遊の際にダラック車を持ち帰り、自ら運転を楽しまれたという「有栖川宮熾仁親王」。ケンブリッジ大学留学時代に「日本人に自動車の運転はできないだろう」とけしかられたのがきっかけで、即現地で免許を取りフィアットを購入した、ホテルオークラの創業者「大倉喜七郎男爵」。といったごく一部の財閥関係者や皇族くらいでした。

そのため、日本では自動車の持つ利便性はなかなか理解されず、一部の先見性のあるエンジニアや軍人を除いて大金持ちの道楽程度にしか思われていなかったようで、大量輸送に勝る鉄道や海運業が優先され、道路整備は後回しに…。大正時代に入っても道路に関しては江戸時代から変わらず、馬車が通る道を砂利道にした程度で自動車が走るために必要な舗装道路というのはほとんど存在しない時代が続きます。

しかし、1923年(大正12年)にその認識を一変させる事態が発生しました。関東大震災です。これにより、東京の鉄道網は壊滅状態、物資の輸送手段や人の移動手段は徒歩か荷車くらいになってしまいます。そこで急遽、政府はアメリカから800台のフォードTT型トラックを輸入、急ごしらえのバスボディを架装し(通称「円太郎バス」)鉄道に代わる公共交通機関として運行を開始。これによりようやく自動車の機動力が世間に認知され、日本でも自動車の国産化の動きが活発になり、アメリカからはアジア圏における潜在的な市場と認識され、フォードとGMが日本に現地法人を設立するに至ります。

その一方、日露戦争以降の軍事費調達や軍艦建造費用がかさみ、国家予算の半分は軍事費に充てられ、一般国道の総延長は1902年(明治35年)の8702kmから1940年(昭和15年)になっても8730kmに留まります。府県道においては33386kmから112132kmに伸びたものの、大半は未舗装路で1940年時点の東京市(当時)で55%。全国では舗装率はわずか1.2%に過ぎませんでした。また1937年(昭和12年)には日華事変が勃発そのまま日中戦争、太平洋戦争へと突入、日本は戦時体制に入りもはや道路整備どころではなくなるどころか、本土空襲が始まると都市もろとも道路も破壊されます。

アメリカでは工場で組み立てられた飛行機が向上すぐわきの滑走路から飛び立って戦地に送られていた一方、日本では飛行機を工場から飛行場まで荷車に載せてでこぼこの砂利道を牛で牽いて運んでアメリカと戦争していたというから皮肉なものです。

戦前の道路整備のツケを払い続けてきた日本の自動車ユーザー

終戦後、壊滅状態となった国土を復興すると同時に、国際社会の復帰と戦後賠償のために再び生産活動を再開する事になります。1948年(昭和 23)には 連合国軍総司令部(GHQ )により「道路復旧五ケ年計画」が提出され、自動車の通行可能な道路整備を要請されます。1952年(昭和27年)には「道路整備特別措置法」が成立し、有料道路制度が導入され、これにより「道路は無償で開放」という原則が崩れます。同年ガソリン税を道路整備の財源に充てる「ガソリン税法案」が提出され、一旦は大蔵省、運輸省の反対で否決されるものの翌年、田中角栄と建設省の尽力により道路整備の特定財源という目的税として「ガソリン税法」が成立するのです。

経済白書の「もはや戦後ではない」が流行語にまでなった1956年。次第に高まる高速道路建設の要請から、名古屋・神戸間の高速道路、後の「名神高速」建設が計画されます。

世界銀行へ建設費用の融資を求めると、日本の高速道路建設の必要性を見定めるためワトキンス調査団が派遣され、かつて「国道は酷道、県道は険道、市道は死道」と呼ばれた日本の劣悪な道路状況を目の当たりにしたラルフ・J・ワトキンスは「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」と酷評。道路状況の悪さが、工業製品の円滑な輸送の妨げとなり、輸送コストが増加し、経済活動の妨げにもなっていると指摘し、そして貸し付けの条件として、高速道路の有料制と道路特定財源(道路整備の目的税)の制定を勧告します。

しかし、一方で田中角栄と建設省につながりが出来たことで、「道路整備」という「終わらない公共事業」が始まってしまったのも事実でしょう。道路財源の確保という名のもとに1965年(昭和40年)には石油ガス税法、石油ガス譲与税法、地方道路税法、1971年(昭和46年)自動車重量譲与税法等、自動車に関わる税金が次々と制定されました。日本での自動車の普及と交通量の増加により多大な税収をもたらし、いつしか道路整備ための財源が、税収のための財源になり、道路建設が公共工事のための道路整備という色合いが強くなっていきました。

有名無実化してしまった特定財源と暫定税率

今から10年ほど前、ガソリン価格が急騰した際に、一カ月だけガソリンが安くなって期限が近づくと年配の人にはオイルショックを思い起こさせるような渋滞がガソリンスタンドで発生したのをご記憶の方もおられるのではないでしょうか。

じつは1974年(昭和49年)に田中角栄が道路五ケ年計画の財源不足を理由に暫定税率を制定、重量税とガソリン税は本来の税率の倍近い税率が課せられることになります。本来は暫定なので「2年後」には本来の税率に戻るはずだったのですが、その後道路五ケ年計画の延長を理由に暫定税率も35年以上延長され続けます。それでも2007年(平成19年)度で期限切れとなり一旦2008年(平成20年)3月に失効し、ガソリンの店頭価格が急落したのですが、同年5月に暫定税率が復活し再び増税。

またこの際にガソリンの3ヶ月の平均小売価格が1L当たり160円を超えたら本来の税率に戻るトリガー条項も定められたのですが、結局発動することは無く東日本大震災の復興財源に充てる事を理由に、トリガー条項は停止されます。そればかりか、財源に余剰が出てきたという理由、ある意味理不尽な理由で道路特定財源は廃止され一般財源となり、道路整備のためという自動車ユーザーへの還元という意味合いも薄れてしまい、高速道路も償還後は無償化するという公約だったはずが、無償化どころか値上がりし、世界一高い通行料になってしまいました。

手段と目的が入れ替わってしまった道路特定財源

日本人の悪い癖なのでしょう。道路の整備という目的のための手段だった、道路特定財源がいつしか財源確保自体が目的になってしまった上に利権迄発生し、自動車ユーザーが不利益を被る羽目に。そして、安易にエコカー減税を導入したことで、税収を使用過程車から穴埋めするという非常に歪な税体系になってしまっています。また、ある県では県の税収の2割が自動車税に依存しているというケースもあります。

エコカー減税も当初は買い替え特需があったようですが、結局は需要の先食いで急に買い替えが落ち込んだり、生産計画が読めなかったり、自動車メーカーにとってもよい事ばかりではないようです。維持費の安い中古の軽自動車を乗りつぶせばいいか、なにより税金を気にするならいっそクルマを買わなければいいと、国内の新車販売どころかクルマのユーザーそのものが減るという有様です。

毎年に何気なく払っている自動車関連の税金ですが、ただ高いというだけでなく、どの税金が何にどう使われているのかを自動車ユーザー自身がよく知り考え、それが税金として真っ当なものであるかを常に為政者に問い続ける努力をしなければならないのかもしれません。

[ライター/鈴木 修一郎 画像/CL編集部]

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