伝説のドライバー ヌヴォラーリを称えるイベント
タツィオ・ヌヴォラーリは史上最高のレーサーの誉れ高い男だ。1892年に生まれた彼は、幼い頃から新時代の乗り物に夢中で、レーサーになるとすぐに頭角を現した。その激しいドライビングから誰しもが彼はサーキットで散ってしまう運命だろうと思っていたが、亡くなったのは自宅のベッドの上だった。
彼のレースはいくつも語り草になっているが、モナコなどのグランプリはもとより、ル・マンを始めミッレ・ミリアやタルガ・フローリオのような過酷な条件下のレースで何度も優勝をしているのだから、ちゃんとクルマに無理をかけずに走っていたわけだ。しかし、同じクルマを与えられたなら、誰よりも速く走れる男だった。いやそれどころか、性能的に劣るクルマに乗っていても、しばしば強大なライバルを打ち負かしたことによって、彼の名声と伝説は築かれたのだった。
タツィオ・ヌヴォラーリは1953年に亡くなったが、それ以降は彼の速さに敬意を表して、ミッレ・ミリアの最後の区間、すなわちクレモナからマントヴァを経由してブレシアのゴールまでの区間を最も速く走った者に対して「グランプレミオ・ヌヴォラーリ」という賞が授けられることになった。
かくしてGPヌヴォラーリ、始まる
1991年から始まり、今年で27回目を迎えた、このヒストリックカーラリーの名称は、かかる由縁によるものだ。ヌヴォラーリの生まれ故郷であるマントヴァ(この街の郊外の大農場が彼の生家だった)をスタートして、シエナやリミーニに向かい、再びマントヴァにゴールするルートだが、毎年、途中のルートは変更されている。今年も3日間(金曜日のお昼にスタートして、日曜日のお昼にはゴールするので、走る時間は正味2日間といってもいいかもしれない)で1024kmのルートを走行した。
今回は1925年のOM 665スペルバから1972年のフィアット500ジャンニーニまでの316台が参加した。地元イタリア勢にくわえヨーロッパ各国やアルゼンチン、オーストラリアからも参加があり、日本からの参加者も7組を数えた。
全45枚 「GPヌヴォラーリに参加した名優たちとムゼオ」詳細レポ
車検会場は建築史上名高いパラッツォ・テに設けられた。1955年アルファ・ロメオ1900CSザガート。
同じくパラッツオ・テでチェックを待つ1953年フェラーリ250MMヴィニャーレ・スパイダー。
GPヌヴォラーリは1972年までの車両が参加可能で、1969年マセラティ・ギブリもエントリー。
スタート会場はマントヴァ旧市街のソルデロ広場。出発する1938年ランチア・アプリリア。
1938年のドライエ135CSル・マン。ドライエは1938年のル・マンで1、2位を占める活躍を遂げた。
ブルーの2トーンが美しいフィアット508クーペ。イタリアならではの参加車両。
ソルデロ広場にはかつてヌヴォラーリが乗ったアウトウニオン・タイプDグランプリカーが飾られた。
レーシング・フェラーリも多く参加した。こちらは1953年フェラーリ375MMピニンファリーナ。
しかし台数的にはポルシェやジャガーの参加が圧倒的に多かった。XK120も多数派である。
旧いレッジョ・エミリア・ナンバーの1938年ランチア・アプリリア。高品質・高性能なコンパクト・セダンだ。
1949年のフィアット1100Bスタビリメンティ・ファリーナ・カブリオレは優雅な姿を披露した。
カルネ・ナンバーが付く1949年チシタリア202SCカブリオレは、日本からはるばる船で渡っての参加である。
イギリスからエントリーされた1929年ブガッティT40は、地味なベイシックモデルだ。
ミッレ・ミリアで最初の覇者となったのが1929年OM665 SSMM。OMは現在トラックのメーカーで現存する。
1950年アルファ・ロメオ6C2500SSツーリングは、チェコからのエントリー。なんだかプラハに似合う佇まい。
1937年フィアット508Cバリッラ。フィアットはその時代の技術水準を遥かに超える高品質な小型大衆車を生んだ。
かつてマセラティとフェラーリがテスト走行でも競い合ったモデナのサーキットに1938年BMW328が出陣。
ファエンツァにあるトロ・ロッソ本拠地のゲートをくぐる1927年ブガッティT40にランチア・アプリリアが続く。
ランチア・ラムダは高品質で実用的なクルマながらミッレ・ミリアでも活躍した。これは1929年型カサーロ。
BMW319/1は4気筒1991ccのエンジンを持ち、これは1936年型。同型のシャーシーに6気筒を搭載したのが328。
アメリカの高級車でV12エンジンを採用した先鞭が優雅なパッカード・トウェルブで、これは1936年型。
トリノのシアタはフィアットをベースに様々なスポーツカーを開発した。こちらは1952年の1400GS。
カウルの中に馬蹄形のラジエターが覗かれることで、ブガッティT23だと分かるだろうか? ちなみに1920年製。
1951年フィアット・ジルコ750Sは、その名のとおり750ccなれど4気筒のエンジンが特徴だった。
1951年エルミーニ1100Sのエンジンは、強力なビアルベーロ(DOHC)の1089cc4気筒を積む。
1955年フェラーリ750モンツァは、ランプレィディが設計した4気筒の2999ccエンジンを搭載。
1954年マセラティA6GCSはファントッツィによる引き締まったスタイルで名高い1台だ。
1955年のフェラーリ750モンツァはスカリエッティが手掛けた空力的なスタイルで人気が高い。
1960年のMG Aが2台続く。ポピュラーだったMGだが、ここではトライアンフやジャガーよりも少数派だった。
ポルシェ356の参加はとても多かった。こちらは1958年356A。
アルファ・ロメオは戦前から各モデルが参加。1962年ジュリアSS。
紳士のためのシックな大型フェラーリが365GT2+2。1969年型。
1969年フィアット・ディーノ・スパイダーは、最近評価が上がってきた。
1965年NSUプリンツ1000TTS。当時ツーリングカーレースで活躍した。
シトロエン・アミ6ブレークのような非力なファミリーカーも参加していた。
1960年トライアンフTR3と並ぶのは1957年BMW507。
最後尾の1台前をスタートするのは1972年フィアット124アバルト・ラリー・グループ4。
1000km余りを無事に走り抜いてマントヴァまで帰ってきた1927年ランチア・ラムダ。
ゴールしたクルマは全車お立ち台でインタビューを受ける。こちらは1937年ドライエ135CSル・マン・モデル。
日本からの参加者はゴール後にイタリア語で感想を述べたので会場が沸いた。1970年フィアット124スパイダー。
1960年のフェラーリ250GT SWBは、他の参加車両をずいぶん追い抜いて、かなり前でゴールしていた。
今年は日本からの参加者は7組を数えた。そのなかで白眉といえる存在がチシタリア202SCカブリオレだ。
マントヴァにはムゼオ・タツィオ・ヌヴォラーリがあり、数々のトロフィーなどが飾られている。
エンツォはイタリア人としては大柄で、タツィオは小柄だった。しかし、ふたりとも豪胆な男だった。
黄色いセーターと詩人ダヌンツィオから捧げられた亀のシンボルが、ヌヴォラーリのトレードマークだった。
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