ロードレース世界最高峰の最高峰クラスで7回王座に輝いたレジェンドのバレンティーノ・ロッシ。今ではロッシと言えばヤマハというイメージもあるが、この組み合わせと彼の成功は、かつてマネージャーを務めていたダビデ・ブリビオなくして実現しなかったかもしれない。
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■ロッシ、MotoGPでのこれまでのライバル達へ思いを馳せる「終わってみれば特別なものだった」
2004年、ロードレース世界選手権のMotoGPクラスで、3年連続チャンピオンを獲得したバレンティーノ・ロッシが、苦しい状況が続いていたヤマハへ移籍した。当時、ホンダで絶頂期を迎えたと考えられていただけに、この移籍を予想した者はほとんどいなかっただろう。だが結果的にヤマハ移籍は彼のキャリアの中でも、最も成功したチャプターとなった。
モータースポーツの歴史においては、当時は疑問視されたものの、結果的に大成功であったことが証明されるような移籍が、過去に何度も起こってきた。F1で後に”皇帝”と呼ばれるミハエル・シューマッハーがフェラーリへ移籍した当時、フェラーリは15年間もタイトルから遠ざかっていた時期であり、記憶に新しいところではルイス・ハミルトンがメルセデスに移籍したのも、競争力に乏しかった2013年という時期だった。
そしてバイクレースにおける同様の事例が、2004年に起きたロッシのホンダからヤマハへの移籍だろう。ロッシはその後ヤマハで計16シーズンを過ごすことになったが、タイトルを4回、56勝を挙げる実績を残している。
結果を見ると”大当たり”だったこのヤマハ移籍。しかし、ホンダで既に最高峰クラスで3年連続で王座に輝いたロッシにとって、かなりリスキーな選択肢だったとことも確かだ。
当時のヤマハは対照的で、1992年にウェイン・レイニーが500cc王者となって以来タイトルを獲得できていなかった。2002年の状況を見ると、ロッシはホンダ・RC211Vで11勝を挙げ、2位以下を獲得したことがなかったが、ヤマハのマックス・ビアッジは2勝で、ロッシには140ポイント差をつけられてしまった。
そして2003年、ヤマハは1度もレースで勝利を記録できず、表彰台もサテライトチームのテック3で走るアレックス・バロスが獲得した1度のみという状況だった。一方でロッシは、この年もタイトルを獲得している。
しかし、ホンダはその成功においてRC211Vのパフォーマンスが重要な割合を占めていたという誇りを抱いていたため、ロッシは自身が過小評価されていると感じることになった。そして、そのすれ違いが、ヤマハにチャンスを与え、今のMotoGPレジェンドが産まれることに繋がった。
■ロッシのヤマハ加入……ひとりのマネージャーが鍵だった?
バレンティーノ・ロッシのヤマハ移籍……その立役者となったのが、チームマネージャーを務めていたダビデ・ブリビオだ。彼は1990年にスーパーバイクでヤマハとの仕事を始めると、2001年にMotoGPチームの一員となった。
彼はmotorsport.comの取材に対し、ヤマハにロッシ獲得を説得していた当時の状況を明かしてくれた。
「まず最初に、ヤマハはロッシと契約を結びたがってはいなかった」と、ブリビオは語っている。
「というのも、(ロッシを獲得して)彼が勝つなら、それは彼の勝利だと思われ、彼の功績にしかならない……そして勝てないようなら、バイクに衆目が集まるというのが、当時のトレンドだった」
「この考えを変えたのは、2003年(の6月)にプロジェクトリーダーとなった古沢政生だった。彼はヤマハのトップに、バレンティーノと契約する必要があると説得したんだ。我々は両方とも、勝つためにはトップライダーが必要不可欠だと経営トップを説得していった。ホンダが勝ったのも、彼らに(ミック)ドゥーハンやロッシという最高のライダーがいたからだ」
ヤマハの経営陣の心変わりは、MotoGPの低迷に終止符を打つためには不可欠なものだったろう。ただそのためには、ブリビオやリン・ジャービスのような人物が必要だったのだ。
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