浮かび上がる人間像、心に響く逸話があった
豊臣秀吉の死去から2年後の1600年、徳川家康は上洛要請に応じない会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を謀反人とし、討伐するために大阪を出発しました。上杉との戦を順調に進めていた家康でしたが、その最中、石田三成と大谷吉継(おおたによしつぐ)が共謀して挙兵したことを知ります。そこには三成と吉継の友情が深く関わっており、「関ケ原古戦場」をスーパーカブで巡り大谷吉継陣跡を訪れると、そこに置かれた解説板でも知ることができました。
【関ケ原の戦い】裏切り上等!? 小早川秀秋の陣跡でその人物像を考える
1600年6月、吉継は家康の会津征伐に加わるために領国の敦賀(福井県)を発ちましたが、その途中で三成から滋賀県彦根市の「佐和山城」に来るよう伝言を受けます。そこで挙兵の秘事を打ち明けられた吉継は、強大な勢力を持つ家康に対して勝ち目なしと、再三に渡って説得しましたが、最後は三成の決意に心打たれ、負け戦になることが分かっていながらも西軍として戦うことを決めたそうです。
吉継が三成への厚い友情を示した理由のひとつが、「茶会」にあると言われています。不治の病である「らい病(ハンセン病)」にかかっていた吉継は、茶会にて顔の膿をお茶にこぼしてしまいました。それを目撃した誰もが飲むふりをしてお茶を回していたところ、三成はゴクゴクと飲み干したそうです。吉継は三成に対して感謝と友情の念を強く持ち、それは一生涯変わらなかったということになります。
才能溢れる吉継は、武将たちに人望のない三成を参謀役とし、毛利輝元(もうりてるもと)や宇喜多秀家(うきたひでいえ)を上に立てることを推奨。そのため西軍の総大将は三成ではなく、毛利だったのです。
さらに小西行長(こにしゆきなが)や島津義弘(しまずよしひろ)など、そうそうたる武将たちを味方につけることに成功しました。その中の1人、小早川秀秋(こばやかわひであき)に対しては裏切りを予感していたため、小早川が布陣する松尾山のすぐ近く、山中村に陣を張ったそうです。
戦いの火蓋が切られた9月15日(現在の暦で10月21日)正午、1万5千の大軍の秀秋が東軍に寝返り、わずか2千人という吉継の部隊は大軍に襲われますが、3度も跳ね返し善戦したと言います。しかし自らの指揮下にあった脇坂安治(わきさかやすはる)らも寝返ったため、ついに壊滅。吉継は切腹したのです。
「(病で崩れた)自分の顔を敵に晒されないよう土に埋めよ」との命を受けた家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ)は、東軍の東堂高刑(とうどうたかのり)に見つかり、自分の首を差し出す代わりに、吉継の首を奪わず土に埋めさせて欲しいと嘆願します。すると高刑は、主君の名誉を守るその姿に感銘を受けたと言います。
その後、家康に吉継の首の在り処を厳しく追及されるも、高刑は決して口を割りませんでした。その様子に家康は怒るどころか高刑の行動に感心し、褒美まで与えたというエピソードも残っています。
吉継の陣跡に向かって山道を登っていくと、吉継と五助の墓が並んでいました。高刑の伯父である高虎(たかとら)は東軍でありながら、敗戦の将である吉継を敬って関ケ原の地に墓を立てたのだそうです。また1916年には湯浅家の手により、吉継の墓に寄り添うように五助の墓も建てられました。
そっと墓に手を合わせて、次の陣地へ向かいました。
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藤堂高虎には自軍がそれほど名のある首を取っておらず、困っていると、甥の高刑が湯浅五助を討ち取ったとの報告を受け、喜んで高刑を連れ、湯浅の首を徳川本陣に持参しました。
すると徳川宿老の本多忠勝や井伊直政から、湯浅は常に大谷吉継に近侍していたから、大谷もそこにいたはずではないかと問われました。
そこで高刑は、かくかくしかじかで、湯浅との約束により、大谷の首のありかは教えられないと告げました。
本多や井伊は呆れ、戦場での約束は守らなくてよいのだと諭すと、高刑は、方々の武士道はさようであっても、自分の武士道はいかなる場合も嘘はつかず、約束は必ず守ることだと告げました。
すると家康は感心し、このような正直者が大谷は死んだというのだから、大谷の死は間違いないと言って、追及をやめさせたということです(講談の話です)。
大谷吉継が「義に厚い人物だった」という印象は変わりませんけど。