ハリウッドとフォーミュラ1が「史上最高のレース映画」を目指してタッグを組んだ『F1/エフワン』。出演者ブラッド・ピット、ダムソン・イドリス、プロデューサーのルイス・ハミルトンらのインタビューと撮影の様子を、映画の制作現場からお届けする。
撮影現場 PART 1
小栗旬、松坂桃李、池松壮亮、窪塚洋介による迫真のヒューマンドラマは必見!──映画『フロントライン』は6月13日公開
グランドスタンドの向こうで唸り声がする。何か原始的なもの、凶暴で狂ったもの、獲物に飢えた猛獣だろうか。アブダビのヤス・マリーナ・サーキットのピットウォールに立った私たちは、ティラノサウルスでも出てきやしないか、いや、ブラッド・ピットのF1マシンがスタート/フィニッシュラインを突っ切ってこないかとドキドキしながら、音のする方向を見やった。
ワーッ!という唸りを上げて、最終コーナーを曲がり、直線コースに入る。そして、3秒、2秒、1秒……ピットのマシンは戦闘機のようなスピードとパワーで、テールから炎を噴き出しながらターン1を駆け抜け、視界から消え去った。
すごい風で髪が乱されるなか、誰かが言うのが聞こえてきた。「あの音に飽きることはなさそうだ」
そう、この映画ではブラッド・ピットが本当にマシンを運転している。実際、ブラッド・ピットとダムソン・イドリスが本当にマシンを運転していることが、この映画の売り、あるいは少なくとも制作上のこだわりとなっている。
監督ジョセフ・コシンスキーによれば、『F1/エフワン』は当初から「これまでに制作されたなかで最も本格的で、リアルで、地に足の着いたレース映画」を作ることを目標にしていたという。コシンスキーと彼のチームが『トップガン マーヴェリック』で開発したIMAX規格の小型カメラをさらに小さくし、マシンのコックピットに取り付けたのも、観客に地球上で最高峰の自動車レースの運転席を体験させるためだった。そしてそれは、映画に出演するスターたちもまた運転席に座らなければならないことを意味した。私がアブダビに到着して以来、キャストやクルーの誰もがこの映画の撮影について興奮気味に話していたのはそのためだ。
グランドスタンドの向こうで再び轟音が鳴り響き、背後で虹色に輝く巨大なホテルの下で低速コーナーに入った。すると、またもやワーッ!という唸りを上げて、ピットのマシンが一直線に疾走していく。そのパワーと激しさは、まるで人生最高のアイデアが浮かんだときのように、興奮を身体中に駆け巡らせる。
「ブラッドについて最も興味深いのは、彼がもうすでに心はレーサーだということです」。そう話すのは、7度のF1ワールドチャンピオンにして、今回初めて映画のプロデューサーを務めたルイス・ハミルトンだ。
「ブラッドはまたとないひとときを楽しんでいるようですよ」と、大物プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーも言う。
また、ピットの製作パートナーであるジェレミー・クライナーは、ピットウォールで私と一緒になったときにこう話した。「ブラッドにとって、ドライビングには生理的な快感があるのだと思います。精神的な高揚とでもいうようなね」
レース映画への出演は本作が初めてだが、ミズーリ州出身のピットはオフロードバイクで育ち、趣味でサーキットを走ったりもしていた。また、彼は一時、トム・クルーズとともに『フォードvsフェラーリ』の前身プロジェクトに配役されており、その段階では監督もコシンスキーで決まっていた。ピットとクルーズは本物のドライビングにこだわり、監督もそれを望んでいたが、コシンスキーによればスタジオが彼の提案した予算に応じなかったというのだ。
コシンスキーがF1を題材にした映画の企画を持ちかけたとき、ピットの最初の質問はこうだった。「ホンモノでできる?」
そうして、俳優たちは本当にF1マシンを運転することになった。しかしそのためには、なぜ無制限の最高速度で運転しなければならないのか、保険会社を納得させる必要があった。「これが高速道路なら、時速290kmで走るなんてまったく無謀で危険なことに聞こえるでしょう」と、アブダビでの撮影に向かうピットは私に言った。「でもこういうのは、スピードが上がれば上がるほど、ようやく機能し始めるんですよ」。ピットが言うには、むしろ制限を設けるほうがよっぽど危険なのだという。グリップを維持するためにはダウンフォースを増やし、タイヤに熱を入れなければならない。桁違いのスピードを出さなければ、グリップを維持することはできないというのだ。
「ブラッド・ピットを死なせるわけにはいかない」というのは、保険会社の言い分としては筋が通っている。しかし、彼らはあることを理解しなければならなかった。これはフォーミュラ1なのだ! ストリートでのちんけなカーチェイスではないのである。
ピットのスタントドライバーを務めた元フォーミュラ2チャンピオンのルチアーノ・バシェタが練習中のピットに速度制限の警告を出すと、ピットは警告なんて無視してやると言った。「不要に熱を上げてしまってね」と、ピットは振り返る。「滑稽でしたよ。最終的に警告が解除され、私たちが信頼され、放っておいてもらえるようになったとき、だいぶやりやすくなりました」
ワーッ!という轟音。彼はラップタイムをコンマ数秒縮めている。それと同時に、マシンに搭載された各カメラに向けて演技もしている。彼が通り過ぎたとき、私はクルーの誰もが携帯電話で観ることができる動画フィードに目を向けた。ライトがヘルメットを横切り、コーナーで屈折する。マシンがカーブを切るときの振動は、F1グランプリの放送で観る映像そのものだ。ピット曰く、これこそが、あくまでもホンモノでやるべきだと皆を納得させた理由なのだという。グリーンスクリーンではこの視覚効果は得られないのだ。
「あのマシンの内部で演技するなんて想像もつかない」と語るのは、ピットのキャラクターが所属する架空のレーシングチーム、APXGPの代表を演じるキム・ボドゥニアだ。「あのスピードといったら! 運転に求められる集中力、演技に求められる集中力。彼はその両方を同時にやっているんですよ! あのマシンに乗っている彼を初めて見たとき、本当に恐ろしくなりました。こんな映画は作れない!とね」。そう言って、 彼はその場を去る仕草をする。「でも、私たちは皆残っています」
「映画館で子どもに戻るような感覚を与えてくれる作品なんですよ」と、本作でイドリスの母親を演じるサラ・ナイルズは話した。
ワーッ!という音、そして炎。頭上で花火が打ち上がるなか、火を噴くマシンが再びターン1へと猛スピードで向かう。
「カウントダウンしていたんです」と、ピットは苦しそうな表情で私に言った。「ドライビングは残り3回、残り2回ってね……。昨夜は眠れませんでした」
この日は最後の運転の日だった。世界中を駆け巡り、ストライキで中断されながら、何年もかけて作り上げた大作が、ついにクランクアップを迎えようとしている。しかし、現場にはまだ緊張感が漂っていた。
まず第一に、彼はまだサーキットにいる。そして、まだゴールを越えてはいない。そう、ブラッド・ピットを死なせるわけにはいかない。
しかし、それだけではなかった。クルーはこの作品の制作に3年、撮影だけで18カ月を費やしてきた。脚本家および俳優組合のストライキを経て、3大陸を股にかけ、14のF1グランプリが現実に開催されるなかで撮影を行った。制作費には2億ドル以上を費やした。カメラも新開発し、今までにできなかった撮影まで可能にした。観客をレースマシンに乗せ、映画スターをレースマシンに乗せた。ダムソン・イドリスという新星を生み出した。ブラッド・ピットというビッグネームを起用した。この映画が成功しなければ、どんな映画ならするというのか? 「『トップガン』をカーレースにした映画」がヒットしなかったら、この業界はどうなってしまうのか?
ワーッ!という唸りを上げながら、彼はまた走り去っていった。最後の1周。無事にピットインできそうだ。心配事がひとつだけ減った。
ピットウォールで、クライナーは単刀直入にこう言った。「この作品はいちかばちかの賭けですよ」
監督、ジョセフ・コシンスキー
この地球上の多くの人々と同じように、ジョセフ・コシンスキーはコロナ禍初期をF1のドキュメンタリーシリーズ『Formula 1: 栄光のグランプリ』に熱中して過ごした。機械技師および建築家としての教育を受けたコシンスキーは、その一風変わった技術的知見をCMや長編映画の監督として生かしてきた。彼は『トップガン マーヴェリック』の撮影を終えたばかりで、スピードに飢えていた。
コシンスキーは2010年の監督デビュー作『トロン:レガシー』でレースの要素を取り入れ、一時は『フォードvsフェラーリ』の企画を進め、その後は『トップガン』を復活させるなど、常に革新的な手法で乗り物や俳優のアクションを撮影してきた。興行収入15億ドルを記録し、過去5年間のハリウッドでも類い稀なメガヒットのひとつとなった『トップガン マーヴェリック』は、もちろん傑作中の傑作である。コシンスキーが『Formula 1: 栄光のグランプリ』や、ひいてはF1全般に魅力を感じたのは、同シリーズが最低ランクのチームに焦点を当てることで、わずかなポイントやたったの1勝を追い求める彼らの姿に視聴者を感情移入させたからだ。
コシンスキーがF1映画の構想をアクション超大作の帝王ブラッカイマーと共有したのは、『トップガン マーヴェリック』のポストプロダクションが進行していた頃だった。1990年の『デイズ・オブ・サンダー』以来、レース映画を製作していなかったブラッカイマーは、地球上で最も人気のあるモータースポーツに前述のような視点を導入することに興味を持った。『デイズ・オブ・サンダー』はNASCARの協力を得て制作されたものの、団体やドライバーたちが期待したほど、このスポーツを忠実に描くことはできなかった作品だった。コシンスキーとブラッカイマーは、映画の制作を実際のF1シーズンと一体化させれば、内部の関係者にも外部の観客にも魅力的な作品にできるのではないかと考えた。
歴史的に、F1は自分たちのストーリーを自ら語ることを好んできたが、『Formula 1: 栄光のグランプリ』以降は第三者にも門戸を開くようになっていた。さらに、コシンスキーには強力な助っ人がいた。『トップガン マーヴェリック』のキャスティング段階でのこと、クルーズからコシンスキーの連絡先を聞いたルイス・ハミルトンが、オーディションの機会を求めて突然メールを送ってきたのだ。コシンスキーは彼をパイロットのひとり、“ファンボーイ”役に考えたが、ハミルトンは時間的な制約を甘く見ていた。撮影はシーズン半ばで、タイトル争いの真っ最中。映画制作のために留守にすることはできなかった。しかし、彼とコシンスキーの関係はそこで終わったわけではなかったのである。
2021年後半、コシンスキーとブラッカイマーは会員制クラブ「サン・ヴィセンテ・バンガローズ」でハミルトンと面会した(ブラッカイマーとハミルトンが会員だった)。ふたりは脚本に描写されるレースの真実味を高め、F1幹部との橋渡し役としても協力してほしいと、ハミルトンを誘った。コシンスキーは、スタジオを説得して制作費を負担してもらうには、この映画に関わる誰もが「紛れもなく完璧」である必要があったと振り返る。多くのスタジオが興味を示したが、コシンスキー曰く、彼らのビジョンを完全に理解してくれたのがアップルだった(よりあけすけに言えば、金を出す気があったのが、という意味だ)。
フォーミュラワン・グループさえ同意すれば、映画の制作はF1シーズンに完全に組み込まれることになる。10チームで構成されるF1において、映画のF1チームが紛うことなき「11番目のチーム」として、他チームと同じようにあつらえのガレージ、マシン、クルー、ドライバーを伴い、レースからレースへと移っていく。そして、他チームのクルーやドライバーたちが背景に自然に映り込むなかで撮影を行う。コース上に撮影用のマシンを置き、本物のマシンと並べる。ピットの弱小チームAPXGPが頂点に立てば、本物のドライバーたちとともに表彰台に立つことになる。それが計画だ。
F1にとって、このようなプロジェクトの統括は頭を悩ませる難題だった。220億ドルの価値があるといわれるスポーツの日々の運営に対する全面的な介入であり、ハリウッド以外からは到底あり得ないであろう大胆な提案である。2022年2月、コシンスキー、ブラッカイマー、ピットは、フォーミュラワン・グループ会長兼CEOのステファノ・ドメニカリに企画を持ち込むためにロンドンへと飛んだ。『トップガン マーヴェリック』はこの時点でまだ公開されていなかったが、コシンスキーはドメニカリとピットに同作を3カ月早く見せるため、通りの向かいの映画館でIMAX上映の手配をした。「ステファノがこの映画の可能性を見出したのはそのときだと思います」と、コシンスキーは振り返る。そして、ハミルトンが関わったことで、F1グループはこの作品が信頼できる人々の手にあると確信した。
しかし、ひとつだけ明確にしておかなければならないことがあった。ハミルトンは、ピットが本当に運転できるかどうかを確認したかったのだ。2022年初頭、ハミルトンはロサンゼルスのポルシェ・エクスペリエンスセンターでピット、コシンスキーと落ち合った。ハミルトンがレーシングカーに乗るのは、1カ月前にアブダビでマックス・フェルスタッペンとチャンピオンを争い、F1史に残るシーズンフィニッシュを飾って以来のことだった。911 GT3でコースを疾走するピットを注意深く見守ったハミルトンは、すぐに彼のポテンシャルに気がついた。ハミルトンにとって、このような指導は慣れたものだ。イギリスの公営団地で暮らす10代の頃から、彼はここロサンゼルスにあるのと同じような施設で、金持ちにレーシングカーの乗り方を教えていた。しばらくして、ハミルトンは運転席に飛び乗って言った。「ブラッド、ちょっと君を乗せてドライブさせてくれよ」
コシンスキーはそのときのことを振り返る。「コースの一部に長いストレートがあるんですが、その先にカルーセルというボウル状になった斜面のカーブがあって、そこに飛び込むと身体が後ろに放り投げられたみたいになるんです。制限速度はわかりませんが、ルイスがブラッドを乗せてカルーセルに飛び込んだときは、制限速度の倍は出していたんじゃないかな。ふたりが視界から消えたときは、空中に舞った粉塵だけが見えてね。そして戻ってくるとドアが開いて、ブラッドは汗だくで車から飛び出し、ルイスは満面の笑みを浮かべていました。彼がブラッドを怖がらせたのは明らかですが、ブラッドに生死の境に立つことがどういうことなのか、少し味わってもらいたかったんだと思います。あの瞬間、ブラッドもすっかり夢中になったんじゃないかな」
撮影現場 PART 2
3年後、アブダビで私はジェリー・ブラッカイマーとピットレーンを歩き、ターン1へと向かっていた。そこではピットのチームメイト、ジョシュア・ピアスを演じるダムソン・イドリスが、花火が上がる夜空を背景にクラッシュしたマシンから身を起こし、バリケードの上に立ってピットに声援を送るシーンの撮影準備が行われていた。
「爆発を伴う撮影をしたことはありますか?」と、私はブラッカイマーに尋ねた。『アルマゲドン』『ブラックホーク・ダウン』『コン・エアー』『ザ・ロック』といった映画のプロデューサーである彼にだ。
彼は私の真意を確かめるように振り向き、冗談だということがわかると答えた。「ええ」
現在81歳のブラッカイマーは、まるで初めての企画を前にした20代半ばのプロデューサーのようなエネルギーと熱意で制作に取り組んでいる。ほとんどのショットで、彼はコシンスキーの肩越しにビデオモニターを確認する。彼がそこにいないとすれば、それは私物のカメラで写真を撮っているときくらいだ。
アブダビでの撮影スケジュールは正午から深夜まで。彼は朝早くから夜遅くまで、撮影が行われている間ずっと現場にいる。今年は何日撮影現場にいたのかと尋ねると、彼は笑って言った。「今年は何日撮影現場に“いなかった”のやら」。その献身ぶりには思わずつられてしまうものがある。『007』シリーズや『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、何十本もの映画に携わってきたクルーのひとりは言う。「ジェリーが朝6時から夜遅くまで撮影現場にいるのを見れば、ほかのスタッフもそうなりますよ」
ブラッカイマーは1990年に『デイズ・オブ・サンダー』で初めてレース映画を手がけた。ハリウッドの歴史でも屈指の痛快な制作秘話が語られる作品だ。制作には、スタジオが当初割り当てた予算の倍近くが費やされたと言われている。ある伝記作家によると、ブラッカイマーの製作パートナーだった故ドン・シンプソンは、本作の制作中に滞在していたデイトナビーチのホテルに、40万ドルを費やしてパーソナルジムと音楽システムを設置したという。ある写真には、ブラッカイマー、シンプソン、監督トニー・スコット、脚本家ロバート・タウン、そして主演のクルーズがデイトナビーチでストックカーに寄りかかり、まるで独立記念日のお祭りに荷車いっぱいの爆竹を持ち込むようなお調子者の一団のように写っている。
『デイズ・オブ・サンダー』が描くのは、純粋なスピード感と陳腐な栄光の物語だ。タイトルの意味は誰にもわからない。クルーズがニコール・キッドマンと出会った場でもある。ルイス・ハミルトンはこの映画を「おそらく1000回は観た」「今年はすでに2回観ている」と言う。ちなみに、この映画は制作費よりも遙かに多くの金額を稼いだ。本作に比べれば『F1』の制作現場は実に地味に思えるが、明らかな類似点がある。
ある日の午後7時、「昼食」を摂るために休憩中のブラッカイマーとコシンスキーに私は加わった(「昼食」というのはハッタリを利かせた冗談だとブラッカイマーは言う)。『トップガン マーヴェリック』で一緒に仕事をしたふたりの経験を踏まえ、ピットではなくクルーズが主演だったらこの映画はどうなっていたと思うかと、私は尋ねた。「トムはいつも限界に挑戦しますが、同時にそれをこなす能力もあり、非常に熟練してもいます」と、コシンスキーは言う。「ふたりとも天性の運転の才能があります。ただ、トムのほうがもう少し我々をヒヤヒヤさせていたかもしれません」
撮影現場の別の場所で、本作のアクション・ビークル・スーパーバイザーであるグレアム・ケリーはより端的にこう言った。「衝突事故が起きていたでしょうね」。彼は微笑んでいる。「トムは限界まで自分を持っていきますから。正真正銘の限界までね。恐ろしくなりますよ。トムと一緒に『ミッション:インポッシブル』を何作もやっていますが、彼のためにクルマを作ったり、スタントを見届けたりする私のような人間にとっては、この上ないストレスなんです。その点、ブラッドは聞く耳を持っているし、自分の能力を理解しています。『そんなことするのはごめんだ』と真っ先に言うのが彼でしょうね」
しばらく後、バリケードでチームメイトに声援を送るイドリスのシーンの続きを撮影する時間になった。このシーンで、ピットのキャラクターは自身のマシンをパルクフェルメに入れ、検査官による点検を受けなくてはならない。
何度もテイクを重ねる必要があるかもしれないこのようなショットでは、サーキットを走るのに使う本番用のマシンではなく、低速で走るために特別に作られた電気自動車を用いる。電動であることに加え、このマシンの特筆すべき点は、F1マシンではほぼ使用されることのないリバースギヤが重宝されることだろう。
約40人のクルーが、空席のスタンドに囲まれた、表彰台があるプラットフォームの下に位置するフィニッシュラインに集う。後ろでは、テクノのビートがF1レースの非公式アンセムのようにかすかに流れている。
「撮影を始めようというとき、必ず誰かがダンスミュージックを流すんですよ」と、コシンスキーは言う。
「止められるか訊いてみます」と、プロダクション・アシスタントのひとりがトランシーバーを鳴らして言った。
しばらくして、コシンスキーが叫んだ。「アクション!」
皆の視線がピットのマシンに注がれる。何も起こらない。
「手で合図をしている」と、コシンスキーが言った。
ピットの声が無線で流れてきた。「バイザーにでっかい汚れが付いてる!」
ピットは少し悲しげに、ゆっくりとマシンを前にやると、大勢のスタッフが彼のバイザーを拭こうと駆け寄った。
ウィンウィンウィンウィン……。まるでミニカーのゼンマイを巻くときのように、マシンが再びバックしていく。ピットはグリッドから30mほど下がったところへと戻っていった。B班カメラオペレーターのナターシャ・ミュランは、フィニッシュラインのすぐ近くにスタンバイしている。ピットがカメラのフレームに入り、手にはめたグローブとステアリングホイールを外して車から飛び降りるところを、遠距離からクローズアップで撮影するためだ。
マシンがややのんびりとフレームに入る。さっきの汚れは拭き取られている。しかし、コシンスキーが目を細めているのがわかった。彼はスタント・コーディネーターのゲイリー・パウエルのほうを向いて言った。「もうちょっと速く入れないかな? もう少しスピード感を出したい」
ウィンウィンウィンウィン……。最初からやり直しだ。ピットのマシンが今度は突進してきて、急ブレーキで止まった。私はモニターに見入った。素早くフレームに滑り込むピットを、カメラが真正面に捉える。彼のその顔──。シートベルトから抜けだし、両手のグローブとステアリングホイールを外して、本物のドライバーのようにマシンから飛び降りる彼の顔がライトに照らされる。これぞ映画スターだ。
後にミュランは、彼女の担当するBカメラは極端なアップが多く、誤差として許されるゆとりはほぼないと説明してくれた。「ブラッドと彼のマシンがフレームに飛び込んだときには、彼に合わせてカメラの向きを微調整しないといけないだろうと思っていました。でも、彼はミリ単位で完璧な位置に付けてきたんです」
次のシーンでは、イドリスがフィニッシュラインでピットを見つけ、彼を抱きしめ、ちょっとしたクールな台詞を言った後に表彰台へと向かっていく。これは『トップガン』や『トップガン マーヴェリック』における空母での祝賀シーンに相当するもので、大勢のパイロットたちに囲まれるなか、ヴァル・キルマーと、そしてマイルズ・テラーと抱き合うクルーズの姿を彷彿とさせる。アドレナリンが滾るアクション、力強いドラマの果てには、カタルシスが必要なのだ。
実は、彼らはこのシーンを、3日前の日曜日に開催されたシーズン最終戦アブダビGPの本物の観客の前ですでに撮影していた。そして、何千人もの観衆に囲まれていたそのときに比べて、今日の静寂に包まれた空の観客席でのテイクには少し苦戦しているようだ。
このショットを準備している間、ピットは頻繁にその場で跳ねたり走ったりして、それまで2時間マシンの中で過ごしていたドライバーらしい輝く汗を維持しようとしていた。長年の友人でメイクアップ・アーティストのジーン・ブラックが、汗を表現する液体を彼に少し吹きかける。
イドリスとピットが抱き合うと、臨場感を演出する手持ちカメラが駆け込む。このシーンの撮影は何度か繰り返された。イドリスが台詞を間違えて、「クソ!」と叫び、全員が再びスタートポジションへと戻る。「こないだとちょっと違うから」と、イドリスは自虐的に言い訳をする。「あのときは観客がいたからさ」
再び撮影が開始し、ふたりが抱き合おうとした瞬間、イドリスがまたしても台詞のタイミングを間違えてしまった。ピットは踵を返し、ハッハッハと言いながら自身のポジションに戻る。「いい笑顔だ!」と、イドリスがピットに叫ぶ。続くテイクはうまくいったが、イドリスは満足していない。彼は「念のためにもう1回いい?」とコシンスキーに訊いた。
彼はその場を歩き回りながら、自分を鼓舞するように言う。「力強く! 力強く!」。次のテイクがこれまでで一番の出来だった。「今のに星印を付けといて」とコシンスキーが言い、彼らはもう一度テイクを重ねた。「アブダビはこれが最後だ!」と、イドリスは自分に叫んで言い聞かせる。今度のテイクは、まるでスタンドに観衆がいて、ブラッド・ピットがアブダビGPで優勝したかのような、熱気と自然体の喜びに満ちていた。空気がそれまでとは明らかに違う。すべての呼吸がぴたりと合ったようだ。誰もが息を呑む。誰もがそれを感じ、確信し、理解した。「これだ!」とコシンスキーが言った。「今のを映画に使う!」
1人当たりの「オン」のスニーカー所有率は地球上のどんな集団よりも高いのではないかと思われる本作のクルーが、すぐに次の撮影の準備を始める。イドリスだけが取り残されたように、溜まったエネルギーを発散したいとばかりに行ったり来たりしている。「チクショウ! 燃料満タンなのに!」
ピットがアブダビ政府関係者との記念撮影に応じて言う。「本当にありがとう。天にも昇る心地だよ……。じゃ、これから表彰台に向かうから」
これも、本物のグランプリで撮影されたシーンの別テイクとなる。フェラーリのシャルル・ルクレールとメルセデスのジョージ・ラッセルの隣で表彰台の最上段に立つピット。このシーンの画像は昨年12月に拡散され大きな話題となった。この映画の撮影中、制作陣はある葛藤を抱えていた。グランプリの観客たちには映画のプロットを隠すべきか、それとも見せてしまうべきか? 最終的に、彼らはシーズンを通してプロットを断片的に明かしていくことを選んだ。表彰台の最上段に立つブラッド・ピットの画像は、映画を待望しているファンの楽しみを削ぐものにはならないと判断したのである。
表彰台から見えるVIP席には、クリーム色、白、青、アースカラーを基調としたスタイルに身を固めた、約150人のエキストラが詰めかけた。まさにヨーロッパおよび湾岸諸国のラグジュアリーといった趣のファブリック、サングラス、ジュエリーが完璧に調和している。チームカラーはそこにはない。現実のVIP席の忠実な再現だ。
ピット、そしてルクレールとラッセルの代役がシャンパンを噴射し、APXGPのチームオーナーを演じるハビエル・バルデムをびしょ濡れにする。コシンスキーとブラッカイマーが、写り込まないように表彰台の後ろに身を潜める。下のレーストラックにいる、ほかのキャストのリアクションも撮影した。完璧だ。
史上最高のF1ドライバー、ルイス・ハミルトン
2022年のF1シーズン中、コシンスキーと『トップガン マーヴェリック』も手がけた脚本家アーレン・クルーガーは、本作の脚本原稿を常にルイス・ハミルトンに送っていた。ハミルトンがいつ、どこにいても。「私は失読症で」とハミルトンは言う。「だから、130ページの脚本を何度も何度も読み返すことは、時間的制約があるなかで大変でした。でも、何かをするのであれば、100%それにコミットしたいですから」
歴代最多のF1優勝回数を誇るハミルトンには、シンプルだが重要な任務が課せられていた。劇中のすべてのレースシーンを批判的に評価するという役目だ。たとえば、脚本の段階ではイドリスのキャラクターが、現実には誰も試みないような地点でほかのドライバーを追い越そうとしていたとする。ハミルトンは、トラックの別の地点でならできるだろうとフィードバックをする。
映画の編集段階に入ると、コシンスキーが今度はレースシーンのラフカットをハミルトンに送る。ハミルトンは、たとえば映像ではマシンはターン5で4速に入っているが、そこに被せられた音響はターン6で5速に入ったときのものだと指摘する。そういったことが彼の仕事だ。
ピット演じるソニー・ヘイズが加わるAPXGPは最弱チームであり、マシンも「クソ以下」である。スピードでは誰にも勝てないことから、ピットはルールを利用した戦略的なトリックで優位に立つ。そのトリックは非常に巧妙かつ納得のいくもので、このスポーツで19シーズンを戦い、360回以上出走してきた人物ならではのアイデアだった。「すべてのレースで戦略家にならなければならなかったから」と、ハミルトンは語る。
ハミルトンはレースシーンを洗練させるのに一役買っただけでなく、キャラクター造型やキャスティングにも関わった。「多様性を持たせるように、外の世界をちゃんと反映させるようにするためでした」と、ハミルトンは言う。「願わくば、子どもたちがこの映画を観て、すごい、ここに出てくる人たちに自分もなれるかもしれない、と思ってくれればいいと考えて」。たとえ、一部のキャラクターに関しては、現実が映画に追いついていないとしても──。「たとえば、ストーリーの主要キャラクターのひとりである女性のレースエンジニアがそうです」。オスカー候補にもなったアイルランド出身の俳優ケリー・コンドンが演じる、APXGPのテクニカル・ディレクターのことだ。「現実には非常に珍しいです」
プリプロダクションで、ハミルトンはキャスティングに立ち会うためにロサンゼルスへと飛んだ。「突然、ジェリーのオフィスでのミーティングに列席することになったんです。あの伝説的な人物のね! 彼は素晴らしいペンのコレクションを持っていました。当時、出演者で決まっていたのはブラッドだけ。ダムソンさえまだです。だから俳優の選考に参加することができたし、様々な役者の資料に目を通したり、オーディション動画をすべて観たりすることができました。私にとっては本当にいい学習の機会でしたね。映画づくりを隅々まで見ることができたなんて」
ハミルトンが強調したいのは、これがハリウッドに足を踏み入れたアスリートの日常ではないことだった。そして、これは彼にとって特別な意味を持つものだった。「私は毎日映画を観ますから。毎日ね」
昨夜は何を観たのだろうか?
「『トロイ』です」
『F1/エフワン』の劇中でピットとイドリスが運転しているのは、F1マシンそのものではない。メルセデスがF1マシンのように見せるために設計した、F1ほどパワフルではないF2エンジンとボディを組み合わせた“フランケンシュタイン的”なマシンである。映画で使われた6台のマシンの各車体には、4台以上のIMAX規格カメラが15のアングルのいずれかで取り付けられている。これは、『トップガン マーヴェリック』で戦闘機のコックピットに取り付けられたカメラをさらに小型化したものだ。
アングルの組み合わせは無限にある。たとえばステアリングホイールの近くに2台、フロントノーズに1台、コックピットの側面で回転するものなど。最後のカメラは、コシンスキーが遠隔でダイヤルをひねるだけで90度旋回できる機能を備えており、ドライバーの横顔から前方のコースの様子、そして彼の横に並んだマシンを運転するドライバーまで、カメラを自在に操って撮影することができる。
トップスピードに近いスピードで安全にレースできるようにしながら、どのようにマシンにカメラを搭載するのか? その問いと解決法は、サイエンスキャンプで頭を悩ませた夏を思い出させるものだ。「コンペティションに参加しているのではないと自分に言い聞かせなければ」と、アクション・ビークル・スーパーバイザーのグレアム・ケリーは言う。「重要なのはショットの見映えであり、ラップタイムではありませんから」
ハミルトンは映画用のマシンを運転したのだろうか?
「いえ、一度もありません。レーシングドライバーの視点から言うと、運転したいとも思いませんから。一度F1マシンに乗ったら、もう戻りたいとは思わないんですよ」
イドリスとピットがシルバーストンで開催された2023年イギリスGPに姿を現すまでに──つまり、この映画の制作がF1シーズンと初めて交わるまでに、彼らは南仏のル・カステレやイギリスのいくつかのサーキットでトレーニングを積み、F1に対して謙虚な態度を育んでいた。
「シルバーストンでの最初のレースから、ドライバーミーティングの席ですべてのレーサーに言いました。『もし俺たちが邪魔になるようなことがあったら、失せろと言ってくれ』とね」と、ピットは振り返る。
2023年のシルバーストンで、ピットとイドリスはF1界に衝撃を与えた。ふたりは満員の観客を前に、ハミルトンをはじめとした20名の本物のドライバーたちとともにトラックに出て、コシンスキーがカメラを回すなか国歌斉唱に立った。彼らはグリッド後方にマシンをセットし、トラックを1周するために位置に付いた。
しかし、ピット曰く、彼のマシンだけが動かなかった。これは映画のプロットの一部なのだろうか、それとも完全な失態なのだろうか? その真相は劇場で確認してもらうとして、その状況は本作の制作プロセスを的確に表したメタファーともいうべきものだった。というのも、そのわずか5日後、映画俳優組合・米テレビ・ラジオ芸術家連盟(SAG-AFTRA)のストライキが始まり、本当にスタートラインで制作が滞ってしまったからだ。
シルバーストンでの撮影をピットはこう振り返る。「いやまったく、素晴らしいサーキットで、私たちにとってホームのような場所になりました。走る準備ができた私たちは、グリッドで本物のレーサーたちと並ぶわけです。テレビ放映ではカットされてしまいますが、映画のためのカメラは私たちをレースの一部としてとらえます。最高の週末。すべてが規則正しく、すべてが荘厳。誰もがアドレナリン全開で。俺たちはこれをやり遂げるんだ!とね。あの日、スタンドの8万人の前で運転しました。マシンを台無しにすることもなく、壁にぶつけることもなく、グラベルに乗り上げることもなく、すべてが順調だったのに! そしたらストライキが起きたもんで、ガックリきてしまいました」
「自分でもどうしていいかわかりませんでした。壁にぶつかったようで。あれだけ努力して、さあやるぞ!っていうときに、突然誰かに『カット』と言われたわけです」
「でも、映画にとってはおそらく望ましい出来事だったのでしょう。自分にとってもね」と、ピットは笑顔で言う。「だって、そのおかげで丸1年余計に運転することができたんですから」
ルーキー、ダムソン・イドリス
撮影の再開を待つ間、ピットとイドリスはレースに出かけた。イドリスは、そこで発見したことを私に話すのが待ちきれないようだった。
「私はブラッドより速いんですよ」と言い、彼は大笑いした。
「彼はタイヤを暖めるのがうまいし、速く走れる状態に持っていくのは私よりもうまいかもしれない。でもオースティンのCOTAでトレーニングをしたとき、初めて彼と自分のタイムを比べたら、私のほうが明らかに速かったんですよ。彼にそう言っておいて!」
「制作陣は私をダムソンと同時にはトラックに出さなくて」と、ピットは言う。「賢明なことです。彼と一緒にトラックに出たくはないですからね」
この映画は当初から、向こう見ずなルーキーと無骨なベテランという、『ハスラー2』ばりの古典的なダイナミズムがそのストーリーの中心となっていた。ピットが演じるのは、90年代初頭に有望なF1ドライバーと見なされていたソニー・ヘイズ。彼はアイルトン・セナ(1994年にクラッシュで亡くなった実在の伝説的ブラジル人ドライバー)とのレース中に起きた事故によって肉体的にも精神的にも打ちのめされ、若くしてF1の世界から姿を消していた。しかし、それもかつてのチームメイト、ルーベン(ハビエル・バルデム)が、自身の弱小チームに彼を招いたことで一変する。チームにはイドリス演じるジョシュア・ピアスという新人がいるが、才能がありながらも未熟なピアスの手綱を握る老兵をルーベンは必要としていた。
イドリスは振り返る。「ルイスが撮影現場に来たとき、彼は“ジョシュア”を見てジョー(注:コシンスキーのこと)にこう言ったんですよ。『ジョシュアはクールすぎる! 自身たっぷりでかっこよすぎだ。彼はルーキーだろう! もっとダサいはずだよ』ってね」
ハミルトンは言う。「昔の私やほとんどのルーキーに比べ、彼はかなり先を行っています。彼のスタイル、自信は類い稀なもの。私なんか自分のスタイルを発見するまで10年かかりましたからね」
イドリスは続ける。「だから言ったんですよ。『ルイスはジョシュアにとって最大のヒーロー。彼はルイスの真似をしようとしているんだ。それが彼がクールな理由だよ』って。ジョーがルイスにそう伝えると──」。イドリスは顎を撫でながらうなずく仕草をする。「ルイスは『うーん……なるほど、納得だ』ってね」
イドリスは笑いが止まらない。プロデューサーのルイス・ハミルトンが、イドリスが自身の真似をしているのだと納得してようやく彼のクールなキャラクター造型に同意したというのがいまだにおかしいようだ。33歳のイギリス人俳優ダムソン・イドリスは、FXのヒット番組『スノーフォール』で主演を務めてはいたが、この規模の映画には出演したことがなかった。「あいつはとても魅力的な野郎でね」と、ピットは言う。「彼はただ完璧。私たちの物語に活気を与えてくれています。ほかの誰もあの役には想像できませんでした。彼のことは信頼していますよ」
数十年来の有名人であるピットと異なり、比較的知名度の低いイドリスはF1の風景にも違和感なく溶け込んだ。特に制作の初期段階では、それが彼の大きな強みとなった。本物のレースへの映画制作の組み込みがレーサーたちに受け入れられるかどうか、その時点ではまだ未知数だったのだ。イドリスは、2024年のハンガリーGPでハミルトンとフェルスタッペンが接触した後、フェルスタッペンがピットインした瞬間を思い出す。
「彼は私の横にマシンを停めて降りてきました。すごくイライラした様子でね。私はただそこにいて、マシンの中で気配を消そうとしていました」と、イドリスは言う。「あれは演技じゃない。スクリーンで観れば、これは現実なんだということが観客に伝わるでしょう」
ハミルトンに、この映画の制作アプローチに対する他チームやレーサーたちの率直な反応はどうだったかと尋ねると、不満は聞かれなかったと答えた。「好奇心ですよ。「私たちの世界にまったく違う世界が入り込んでくるのだから、ときには境界線を理解せずにこちらの領域に踏み込んできて、横暴に振る舞う人もいるだろうと思ったかもしれない。しかし、彼らのアプローチはとてもプロフェッショナルでした」
当初から目標とされていたのは、通常どおりの運営を混乱させることなく、既存のオペレーションに接ぎ木することだった。映画とF1シリーズの公式連絡係であるティム・バンプトンの口癖が、この制作アプローチを端的に表している。「トラック上の2台のマシンのようなもの。可能な限り近づけたいが、決して接触させてはならない」
ストライキから1年後、2024年7月にシルバーストンとイギリスGPに戻ってきたとき、ピットとイドリスは1年のドライビング経験を積んだことで新たな自信を得ていた。ピットは言う。「2023年はアウェーというか、他人のホームにいるような気がして、本当に謙虚な気持ちでちょっと内気でもありました。彼らやこのスポーツに尊敬の念を抱いていましたから。でも、次の年の撮影ではそこが自分たちのホームのように感じられたんです。“生態系”の枠組みの中に溶け込むことができて、本当によかったですよ」
2024年7月のシルバーストンとハンガリーから、夏から秋にかけて撮影地はベルギーのスパ、メキシコシティ、ラスベガス、そして最後はアブダビへと移動した。撮影されたレースはそれだけに留まらず、より小規模の撮影ユニットが派遣された2023年ハンガリーGP、2023年モンツァGP、2023年スパGP、2023年ラスベガスGP、2023年アブダビGP、2024年日本GP、そして2024年オランダGPもあった。目的地を転々とする巡業サーカスのようだ。
『007』や『ミッション:インポッシブル』シリーズも手がけたロケーション・マネージャーのチャーリー・ヘイズはこう語る。「私たちはロジスティクスには長けているつもりですが、F1のスタッフには敵いません。ひとつのレースを終えたら、別の大陸へ。まるで魔法のようです」
カメラオペレーターのナターシャ・ミュランによれば、制作がスケジュールから遅れることはなかったという。シーズンの進行ペースに、とにかくついていく以外なかったからだ。現実の出来事にフィクションの要素を織り交ぜて撮影する必要があったため、制作陣にはテレビの生放送のような並外れた正確さが要求された。「成功させるという選択肢以外はないので、全員が常に200%の力を発揮しています」
「制作中はずっと、11番目のチームとして振る舞い、生活する必要がありました」と、もうひとりのスタッフは話した。
アブダビでの最後の週、最後の夜、クルーが日没とともに再集合する。彼らは1年半近くも一緒にいて、いまだにいい雰囲気を保っている。「いい映画だろうが悪い映画だろうが、素晴らしい脚本だろうがクソ脚本だろうが、クルーの雰囲気がよければ映画はよくなる」と、誰かが言った。
ブラッカイマーも、彼自身の言葉で同じ点を強調する。「それにこのメンバー! 皆、今でも仲がいい。HRからの電話もない。信じられないですよ」
クルーは、ピットの最後のシークエンスを準備する。トラックへとファンが押し寄せるなか、グランドスタンドの下を、彼らとは反対方向に掻き分け去っていくピットを追うクレーンショットだ。クレーンの「スコーピオ45'」が立ち往生すると、オスカー受賞者の撮影監督クラウディオ・ミランダを含む9人がかりで所定の位置まで押し上げなくてはならない。
このシーンが伝えるのは、この一匹狼はこんな華やかで仰々しい場に出るためにレースをしているのではない、ということだ。
ピットが、ジーン・ブラックから汗とシャンパンを表現した水滴を振りかけてもらう。何十人ものエキストラが、まるで檻から解き放たれたかのようにフレームに入ってくる。完璧な配置で、撮影開始の瞬間に備えるのだ。
数テイク後、コシンスキー監督は満足したようだ。
「クールだった」とピットが言う。「うん、今のはよかった」
真夜中前に、ピットの撮影は終わった。キャストとクルーの前で、彼は抱擁を受ける。
イドリスは信じられないようだ。「俺よりも先にブラッド・ピットを抱きしめるなんて」と、後に彼はその夜を振り返りながら、冗談を言った。「彼にこう言われたんです。『おい、番号は教えたよな? メールするよ』って。だから『メールするってどういうことだよ? どこに行くつもりなんだ?』と返しました」
映画の中にも、似たような瞬間がある。ふたりの男はようやく仲よくなったが、一匹狼は去っていく。次のレースを探して。
ベテラン、ブラッド・ピット
現実の彼らは、ピットをこっそり連れ出して最後のセッションを行った。後に、ピットはそのときのことを振り返って言った。「彼らは純粋に同情して、このまま終わりを迎えさせないためにそうしてくれたのかもしれません。ルイスが言っていたんですが、ドライバーとしてのリズムを掴んだときというのは……時間がゆっくりしていくのを感じ、すべてのコーナー、アスファルトの割れ目、すべての段差が手に取るようにわかり、無敵の状態になるといいます。そして、それが彼にとっていかに崇高な体験かということを。私も、まさにその最後の晩に、それを自分なりに感じました。一晩延長してもらったからおまけみたいなもので、だからこそさらに自由になれたんだと思います。何度か走って、マシンの中に戻りさえすれば至福を感じることができるというくらい、最高のセッションを経験しました。あの体験が恋しいですよ」
アブダビでの撮影の後、プロダクションチームは風のように散っていった。その後、映画のファーストカットを完成させたコシンスキーは、ロサンゼルスの山火事に1週間翻弄されることになった。「この映画を初めて最初から最後まで観たのは、避難したホテルの部屋でノートパソコンを使ってのことでした」と、彼は言う。コシンスキーが「IMAX、つまり可能な限り大きなスクリーンのために作られた映画」と説明していた作品で想定していた視聴環境とはだいぶ異なるものだ。
イドリスは新作映画の撮影のためにケープタウンに向かった。「人生の中で、今は母国にいたいという時期が来ているんです」と、イドリスは私に話した。ハミルトンはフェラーリでの初めてのシーズンをスタートさせ、上海のスプリントレースで新チームでの勝利を飾った。
一方、春に再び話をしたピットは、次回作の撮影が行われているニュージーランドにいた。広大な自然の中にある、夢のような家が彼の住処だ。その日は日曜日で、撮影も休みだった。彼はこの休日、私が最後に彼と会った場所から地球の反対側にたったひとりでいる。新しい場所を自分の住処にするためには何をするのかと私は尋ねた。
「私はちょっとした建築スノッブで、自然好きでもあって」と、彼は言う。「だから、新しい経験のために美しい場所を探すわけです。我が家を再現しようとするのではなく……いや、シーツだけは自分で用意するけど。年を取って柔らかいのが好きになったのでね。でも、それくらいです」
ルイスやほかのドライバーたちと多くの時間を過ごした今、ピットは彼らと映画スターとの共通点は何だと考えているのだろうか?
「ひとつは孤独」だと、ピットは言う。「物事がうまくいっていないと感じるときの孤独も含めて。それは通常、何か大きなものへとつながり、そこに目的を見出すことができます。でも、孤独は確かにあるし、それは必ずしもネガティブなものでもありません。この仕事を維持するための努力であり、自分自身との絶え間ない対話なんです。それと、そうだな、俳優こそひどい仕打ちを受けていると思っていたんですが、彼らは我々の比ではありません。とても厳しい目を向けられているし、あのスポーツはとても尊敬されています。なのに、高速道路で自家用車を飛ばしたりするだけで、あんなの自分にもできると思っている人が大勢いるんです。彼らはひどい言われようですよ。ショッキングなくらいね。彼らは私たち俳優よりも侮辱に動じないんです」
F1マシンは危険なものだが、ドライバーにとってはしばしば聖域でもあるように思われる。これは、ピット自身にも当てはまるメタファーだ。映画制作もまた、30年にわたり彼の生活の一部となっている騒音から彼を隔離してくれてきた。「私の私生活はいつもニュースになってきました。30年間ずっとですよ? 少なくとも、私の私生活の“あるバージョン”はね。そう言ったほうがいいかな」
この映画は、衆目から逃れるための逃避先だったのだろうか?
「うーん、そうは思わないですね。ああいった報道は、いつも迷惑に感じていました。何かやりたいとき、大なり小なり対処しなければならない問題としてね。だから、いつも時間の無駄遣いのように感じてきました。ほとんどの場合、私はかなり……私の人生はだいぶ穏やかなものです。友人たち、家族、自分は何者であるかという自己認識、そのおかげで温かさと安心を感じています。だから、ちょっと邪魔なハエが飛んでいるというだけですよ」
アブダビでの最後のドライブの数週間後、アンジェリーナ・ジョリーとの離婚が成立したピットの私生活は新たな注目の的となった。ついに離婚が成立したことで、何かそれまでと変わったことはあるのだろうか? 安堵を感じているのだろうか?
「いや、大したことではないと思っています。ただ、法的に決着がついたというだけで」
ピットと新たな恋人のイネス・デ・ラモンは、2024年のイギリスGPで初めて一緒に公のイベントに出席した。ハミルトンがメルセデスとの最後のシーズンで優勝を飾ったレースだ。私はピットに、デ・ラモンとの初めてのイベント出席にF1レースを選んだのは意図的だったのかと尋ねてみた。
「いや、そんな計算はしていませんよ」と、ピットは笑う。「なんてこった、そんな計算をしながら生きていたらどんなに疲れるだろう? いや、人生も人間関係も発展していくものだというだけです」
この映画には、ピットと彼のキャラクターとの間に共鳴するものが激しく感じられるシーンがたくさんある。おそらく世界で最も知名度の高い俳優であろうブラッド・ピットが演じるソニー・ヘイズは、一匹狼のレーシングカー・ドライバーだ。彼の過去を、人々はよく知っていると思っている。彼の現在を、人々は最大限の関心を持って追いかけている。ある場面でソニーは、自分のトラウマ、過ち、後悔にどう向き合ってきたか、そしてなぜそれを続けるのか、珍しく弱さを見せる場面で説明する。「ハンドルを握っている間は、すべて大丈夫だった」
あるシーンで、ソニーはある感情を説明する。それは彼がずっと追い求めてきたもので、彼がスポットライトを浴び続け、命を賭けてまでレースをやり続ける理由でもある。それはハミルトンがピットに語ったフロー状態によく似たものだ。時間がゆっくりと流れる。静かで、平穏で、雲の上に昇るような、空を飛ぶような感覚である。
春、私たちの会話の合間に、ピットは窓の外を見やって目を閉じた。「マシンの中は穏やかです。精神的に優れない日もあるし、ターンでほんの数分の一秒遅れることもある。あるいは、不安な日が続いていて、マシンにコミットできていなかったり、信頼できなかったりして、すべてを間違えてしまうことも。一方で、信じられないような、抜群の日もある。このマシンがどれだけ粘れるか、どれだけ遅くブレーキを踏んでもマシンが堪えてくれるか、信じられないときもあります。馬にも似ていますね。馬に乗り、馬を信頼し、馬を知り、馬を愛し、馬とコミュニケーションをとるようなもの。そして、ときにはすべてがうまくいき、すべてがピタリとハマって……うーん、いい言葉が思い浮かばないけど、世界に心配事がなくなるような感じになるんです。昨日のことなど何もないし、明日やらなきゃいけないことも何もない。ただその瞬間があるだけ。直線に入った瞬間というのは、最も速いスピードで走っているのに、実はちょっとした息抜きができる、息を整えることができる場所でもあるんです。『ああ、何て美しい雲なんだ』とか、『あのグランドスタンドは青く塗られているのか。ちょっと変わった色だな』とか、次のブレーキングポイントに近づくまで少しぼんやりする時間があるんですよ」
逃避先であれ、スリルであれ、夢であれ、それは彼が望んでいたものだった。「実は、しばらくこの仕事を続けてきて思っていたことがあるんです。『自分にはこれ以上語るべき物語があるのだろうか? まだ興奮できることは残っているのだろうか?』とね」。この物語、この映画、この冒険が、彼の問いにイエスという答えを示した。「この映画のおかげでまた元気が出てきましたよ」
彼の目に、今度はベルギーのアルデンヌ地方にあるスパのサーキットが浮かんだようだ。「スパも、あのマシン、あのシートに身を委ねたいと思えるところです。オールージュ(注:F1で最も度胸が試されるコーナー)に近づいて、フルスロットルで駆け上がるときのアドレナリン。目の前に見えるようです。プーオン・コーナーに差し掛かったとき、オフキャンバーに見える下り坂でもマシンを信頼して、そのまま空中に放り投げられるんじゃないかというダブルエイペックスの高速コーナーも乗り切って……」。彼は再び目を閉じている。「本当に幸せですよ」
ブラッド・ピット俳優、プロデューサー
1963年生まれ、米オクラホマ州出身。91年の『テルマ&ルイーズ』で注目を浴びて以降、主役から脇役まで幅広い作品に出演。2019年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でアカデミー助演男優賞受賞。
ダムソン・イドリス俳優
1991年生まれ、英ロンドン出身。2016年に『シティ・オブ・タイニー・ライツ』で長編映画デビュー。その後、ジョン・シングルトンがクリエイターを務めたFXのドラマシリーズ『スノーフォール』でブレイク。現在のハリウッドを代表する若手注目株となっている。
ルイス・ハミルトンレーシングドライバー
1985年生まれ、英ハートフォードシャー出身。フェラーリ所属。2007年にオーストラリアGPでデビューして以降、ミハエル・シューマッハと並ぶ史上最多タイ7度のF1ワールドチャンピオンに輝く。『F1/エフワン』では初めて映画プロデューサーを務めた。
From GQ.COM
By Daniel Riley
Translated and Adapted by Yuzuru Todayama
PRODUCTION CREDITS:
Photographs by Nathaniel Goldberg
Styled by George Cortina
Grooming for Brad Pitt by Jean Black
Production for Brad Pitt by Rebecca Vaughan at Our Production Team
Grooming for Damson Idris by Matiki Anoff
Tailoring for Damson Idris by Sandra Daniels
Production for Damson Idris by Orange Films
Braids for Lewis Hamilton by Angela Torio Rivera
Barbering for Lewis Hamilton by Ainsworth Ramsay
Skin for Lewis Hamilton by Yuko Fredriksson
Tailoring for Lewis Hamilton by Florence Lesecq
Production for Lewis Hamilton by Delphine Landes at HVH
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