レッドブルF1のモータースポーツアドバイザーとして、長らくチームの成功を支えてきたヘルムート・マルコ。82歳を迎えた彼は元々、レーシングドライバーとしてF1やル・マン24時間で活躍した過去を持つ。そんな彼の半生をmotorsport.comが振り返る。
ヤンチャな走り屋から法学博士に、そしてレースへ
オーストリアのシュタイアーマルク州の州都、グラーツ。この田舎町でマルコは育った。学友は後のF1チャンピオン、ヨッヘン・リント。同じ寄宿学校に通っていたふたりは、バートアウスゼー周辺の峠道をフォルクスワーゲン・ビートルで駆け抜けた。もちろん運転免許など持っていない。いわゆる“走り屋”だった。
マルコはレッドブルのインタビューで、笑いながら当時を振り返った。
「ヨッヘンは何があってもドイツのパスポートを見せるだけなんだ。もちろん警官には免許証を出すよう言われたが、『ドイツではパスポートを取れば免許証もついてくる。じゃないとパスポートなんて持っている意味がないだろう?』と言うんだ」
走りの楽しさに魅了されたマルコだったが、当時はモータースポーツを生涯の生業にするなど夢にも思わなかった。彼は学業も優秀で、普通のキャリアを選ぶ方が賢明に思えた。しかし状況が変わったのは1961年。マルコとリントは共に大学入試に失敗したのだ。
ふたりは家に帰って家族に報告することもせず、ニュルブルクリンクまで一直線。1日中走り、F1マシンのエンジン音で目が覚めた。「そこでヨッヘンが『俺がやりたいのはこれだ』と言った。彼は19歳で、私は18歳だった」と語るマルコ。車は既にビートルからシムカに乗り替わっていた。
■『ドクター』の誕生とF1の世界へ
リントは裕福だったためすぐにレース活動を開始できたが、マルコは親から「まずは勉強しろ」と言われ、大学に入って法学を学んだ。リントはグラーツ周辺の道で鍛えた腕前を武器にメキメキと頭角を現し、1964年にはブラバムBT11をレンタルする形でオーストリアGPに出走。22歳にしてF1デビューを果たした。
クーパーでフル参戦を開始したリントは、1966年にシリーズ3位を獲得するなど、トップドライバーとしての地位を確立した一方、幼馴染のマルコはまだ法律書と格闘していた。しかし1967年には法学の博士号を取得。彼が今も“ドクター”と呼ばれるのはそのためだ。
それでもやはり、血が騒ぐのを抑えることはできなかった。法の世界を離れ、遅れてレース界に飛び込んだマルコは、最初はスポーツカーとフォーミュラVeeでキャリアをスタートし、そこで若き日のニキ・ラウダとも出会った。ふたりはすぐに意気投合したが、実は当時のマルコは後に3度のF1ワールドチャンピオンとなるラウダとも引けを取らない走りを見せていた。事実、マルコはニュルブルクリンク・ノルドシュライフェ(いわゆる北コース)で初めて10分の壁を破った男でもある。
マルコは後年、「ずっとレースには興味があったけど、自信がなかった。でもヨッヘンがイギリスで成功するのを見て、『彼にできるなら、俺にもできる』と思えた。他のオーストリア人ドライバー同様、彼にはとても感謝している。彼が道を切り開いてくれたんだ」と振り返っている。
リントがF1ワールドチャンピオン目前で悲運の事故死を遂げた(死後に王座が確定した)その翌年、1971年にマルコもF1へと辿り着いた。初レースの舞台は思い出のニュルブルクリンク。型落ちのマクラーレンで参戦したが、予選通過は果たせなかった。その2週間後に地元エステルライヒリンク(現在のレッドブルリンク)で再びチャンスを得たマルコはBRMで11位完走。残りのレースも同チームから出走した。
「BRMはビッグネームで華やかだったが、1レースで4、5台がエントリーするので全ての車両が同じように整備されていたわけじゃなかった」と語るマルコ。ただ翌1972年も残留し、シーズン途中には新型のP160Bを手にすることができた。ポイント獲得、上位入賞も夢ではない状況だったが、フランスGPの事故が彼のキャリアに暗い影を落としたのである。
■キャリアを絶ったアクシデント
フランスGPでマルコは予選6番手を獲得。決勝ではロータスのエマーソン・フィッティパルディ、そしてマーチのロニー・ピーターソンに続いて走行していた。ところが9周目、ピーターソンが一瞬コースを外れ、リアタイヤで小石を跳ね飛ばした。その小石は弾丸のような速さでマルコのバイザーを貫通した。奇跡的にマルコは意識を保ち、自力でマシンを路肩に停めたが、ダメージは深刻だった。
血まみれの顔で病院に運ばれたマルコは左目の視力を失ったことを告げられた。彼のレーシングキャリアはそこで終止符が打たれたのだ。
「目の怪我は本当に酷く傷んだ。結局、縫い合わせなければならなくて、まばたきするたびに激痛が走った。何日も眠れなかったよ」と回想するマルコ。P160Bは旧型よりも15cmほど座面が高く、マルコにとっても窮屈なマシンだったが、「もしあのニューシャシーじゃなかったら、そして座面が15cm低かったら、あの石には当たらなかったかもしれない」と自問することもあったという。
人生で唯一の目標だったレースでの成功を絶たれたマルコは眠れない日々を過ごしたが、時間が経つにつれ思い浮かんだのは、命を落とした親友リントの姿だった。
「振り返れば、片目を失っただけで生き延びられたのは幸運だったと思わないといけない」
いずれにせよ、前途有望なドライバーのキャリアは芽を摘まれる形で終わった。マルコがレースを続けていればどれほどの成功を収めていたかは分からない。ただ皮肉なことに、翌1973年にマルコが座っていたかもしれないBRMのシートを得たラウダは、その後フェラーリと契約し、栄光の道を歩んでいった。ただ、マルコに嫉妬心はなかったという。
「ニキは私のBRMのポジションを引き継いで、最終的には私がサインするはずだったフェラーリとの契約も勝ち取った。でも、彼に嫉妬したことは一度もないし、『自分にもできたんじゃないか』と考えたこともない。私は夢想家じゃない。それに、ニキが初めてエンツォ・フェラーリと会うときには、私も一緒に同行したんだ」
短命に終わったマルコのキャリアはF1こそ夢半ばで散る形となったが、スポーツカーの世界では成果を残した。特にル・マン24時間では1971年に名車マルティーニ・ポルシェ917Kを駆って総合優勝を果たしたのだ。これは彼の人生のハイライトでもある。
「後にポルシェ博物館を訪れたとき、あの車が展示されているのを見たが『こんな構造でル・マンの直線を時速390キロで走っていたなんて信じられない』と感じた。あの時代を生き抜けたのは奇跡的なことだと思っている」
■F1ではマネジメントの世界で成功
マルコの第2の人生は、オーストリア人ドライバーのマネージャーという形でスタートした。彼はグラーツでふたつのホテルを経営する傍ら、ゲルハルト・ベルガーやカール・ベンドリンガーをサポートしていた。また自身のレーシングチームRSMマルコを興し、DTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)や耐久レース、そしてF3000などに参戦した。
このチームの行方を大きく左右したのは、もうひとりのオーストリア人の友人、ディートリッヒ・マテシッツとの人脈だった。その関係により、チームはやがてレッドブル・ジュニアチームと改称され、これがマルコのキャリアに決定的な役割を果たすことになる。
マテシッツがジャガーF1チームを買収してレッドブルF1チームを立ち上げたことで、マルコの役割は自ずと明白になった。その後セバスチャン・ベッテルやマックス・フェルスタッペンといったスターを見出し、数多くのタイトルを獲得したことはいうまでもない。
今ではF1パドックで最も著名な人物のひとりとなっているマルコ。そこはかつて、彼自身がドライバーとして輝こうとした場所でもあるのだ。
「レッドブルの若いドライバーたちが、私の昔話を知っているかって? どうだろうね……少なくとも私から尋ねることはないよ(笑)」
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