名称に宿る都市の記憶
東京には「明治通り」と「昭和通り」がある。
【画像】「なんとぉぉぉぉ!」 これが50年前の「渋谷駅」周辺です! 画像で見る(計9枚)
明治通りは、渋谷から池袋を経て上野方面へと延びる幹線道路だ。沿道には商業施設や再開発エリアが広がり、都市の変化を象徴する存在となっている。昭和通りは、東京駅の東側を南北に貫く。日本橋、秋葉原、上野を結ぶ主要ルートであり、物流や通勤の動脈として機能してきた。
一方で、「大正通り」は存在しない。この事実は、通りの名付けが偶然ではなく、都市の構造と深く関わっていることを示している。
名称には、その時代の記憶と意味が刻まれる。残るものもあれば、消えていくものもある。時間と空間が交差するなかで、都市の名前もまた淘汰され、継承され、やがて忘れられていく。
公募が決めた二つの愛称
最初に断っておく。大正通りは最初から存在しなかったわけではない。
1923(大正12)年の関東大震災を経て、帝都・東京では大規模な都市改造が進められた。放射状に延びる幹線道路と、それらを接続する環状道路の整備は、防災と物流の両面で喫緊の課題だった。
震災復興の一環として、東京市は複数の幹線道路を構想した。のちに明治通りと呼ばれる環状5号線は1927(昭和2)年から整備が始まり、渋谷から神宮前にかけての区間では、明治神宮にちなんだ名称が定着していった。同じく、東京の南北を貫く幹線には昭和通りという呼び名が与えられた。
そしてもう一本。九段坂を抜けて東西に走る幹線道路には、当初大正通りという名がつけられていた。正式な行政名ではなく、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が行った帝都復興記念の愛称公募によって、市民の声として大正通りと昭和通りが選ばれた経緯がある。
したがって、大正通りはかつて存在していた。だが、その名は結果として定着せず、現在は
「靖国通り」
と呼ばれている。
靖国通りに刻まれた記憶
なぜ大正通りは消え、靖国通りが定着したのか。
背景には、都市空間に刻まれる記憶の強度がある。1962(昭和37)年、東京都は都道の愛称を正式に定めた。この際、昭和通りは採用されたが、大正通りは除外された。代わりに靖国通りという名称が公式化されたのである。
名称変更の理由は明文化されていない。しかし、
・靖国神社の大鳥居の近くを通る道という視覚的印象
・戦前からの国家的象徴との強い結びつき
が意識された結果だと考えられる。
記憶は場所を媒介する。靖国通りという名は単なる道路名を超え、歴史的・精神的な結節点となった。一方で、大正という元号は15年と短かったため、都市の物語に刻まれにくかったのかもしれない。
関東震災と復興計画の軌跡
明治は近代国家の黎明を象徴する時代だ。昭和には戦争、復興、高度経済成長という起伏に富んだ記憶が積み重なっている。では、大正とはどのような時代だったのか。
大正は明治の後、昭和の前の元号で、1912年7月30日から1926年12月25日までの期間を指す。日本の元号として初めて全期間でグレゴリオ暦が用いられた。大正天皇の在位期間であり、日本史上最も短い時代区分である。
この時代は政治的に「大正デモクラシー」と呼ばれる政党勢力の台頭や護憲運動が起こり、原敬内閣の誕生など政党内閣制が進展した。普通選挙法が成立した一方で、共産主義の台頭を警戒して治安維持法も制定された。外交では第一次世界大戦に連合国側で参戦し、国際連盟の常任理事国となるなど国際的地位を高めたが、日米対立の兆しも生じた。
1923年の関東大震災では東京が大きな被害を受け、後藤新平の指導で復興が進められた。経済面では戦時景気による発展と戦後の反動不況があった。文化面では都市の近代化とともに「大正モダン」と呼ばれる華やかな都市文化や大衆文化が花開き、女性の社会進出も進んだ。大正天皇の崩御により1926年に昭和に改元され、大正時代は幕を閉じた。
大正デモクラシーや大衆文化の萌芽、都市中間層の台頭など内面的には豊かな変化があった。だが国家的スローガンや都市イメージに結晶化するには至らなかった。都市は過去のうち「語りやすいもの」を優先して名付け、記憶し、道に刻む。そのフィルターに大正は引っかからなかった。
関東大震災の復興計画が動き出したのは昭和に入ってからだ。震災の直撃と戦争の幕開けに挟まれた大正の記憶は制度化されずに置き去りにされた。
都市の道路は単なるインフラではなく記憶と価値観の通路でもある。明治通りは明治神宮、昭和通りは震災復興と戦後の繁華街の記憶と結びつき、視覚や体験、語りを通じて定着している。
しかし大正通りにはそうした「場の象徴」がなかった。九段坂の勾配を緩和するために削られた斜面も皇居の外濠も靖国神社の鳥居の存在感には敵わなかった。都市が「語りたい風景」として選んだのは大正ではなく靖国だった。このことは名付けが単なるラベルではなく都市の記憶政治そのものだと示している。
地域力が左右する道路名称の継承
では、大正通りという名は完全に消えたのか。
実は、東京23区外の武蔵野市吉祥寺には現在も大正通りが存在する。これは昭和初期に整備された商店街で、いまも地元の生活道路として親しまれている。地元商店会の資料によれば、近代化された街路の整備を大正モダンの象徴として記念したものである。
この事実はむしろ問いを深める。なぜ吉祥寺では名が残り、九段坂では消えたのか。そこには地域ごとの記憶の継承力、すなわち記憶を守る共同体の強さが関係している。
都市の名付けは現在も続いている。中央区では1980年代後半から、住民の声をもとに道路に愛称をつける事業が進められた。その結果、日本橋兜町から築地にかけての通りに「平成通り」という名が与えられた。沿道には看板も整備され、公式な名称として扱われている。
さらに令和になって以降、山口市ではJR新山口駅前に開通した県道に「令和通り」の名が与えられた。東京都内ではまだ見られないが、こうした動きは今後の可能性を示している。
かつて公募によって市民が名付けに参加したように、今後も都市の中で名付けをめぐる動きが活発になるかもしれない。
都市記憶と名付けの選択肢
大正通りという名は確かに東京の幹線道路から消えた。しかし、それが時代そのものの消失を意味するわけではない。
名前が失われた理由を問うこと、なぜ定着しなかったのかを考えることは、むしろ記憶を呼び戻す行為である。名前は都市の中で残されたものではなく、
「選び取られたもの」
だ。ならば、選ばれなかったものにこそ新たな問いを投げかける余地がある。
都市は忘却の上に築かれている。その忘却の跡をたどることで、再び都市の記憶を編み直せるのではないか。(小西マリア(フリーライター))
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みんなのコメント
何を編集しているんだか。。
まぁ明治通りは大体明治時代の東京市内と言う認識でいいんじゃない
因みに江戸時代の江戸市中は外堀通りの内側です