「マニュアルこそ至高」という定説に、レーシングドライバーが独自の視点で切り込む。過酷なサーキット走行を知るプロだからこそ辿り着いた、理想のトランスミッション論とは一体何なのか?
文:中谷明彦/写真:ベストカーWeb編集部
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MTにこだわりすぎない明確な理由
こんなことを言うと違和感を覚える人もいるかもしれないが、トランスミッションのシフトフィールについて長年レーシングドライバーとして走ってきた経験からひとつの明確な見解を持っている。
多くの人は、スポーツカーであるならばマニュアルトランスミッション(MT)、いわゆるスリーペダルこそが理想だと考えているだろう。実際、スポーツドライビング愛好家の間では今でもマニュアル車の人気は高い。ドライバー自身がクラッチとシフトレバーを操作し、機械を操る感覚を味わえるという魅力があるからだ。
しかしレーサーの視点から見れば、マニュアルトランスミッションが必ずしも理想的とは言えない。理由は単純である。変速操作を行う瞬間、ドライバーは必ず片手運転になってしまうからだ。一般道であれば問題にはならないが、サーキットのような高速域では話が違う。ステアリング操作に集中すべき状況で片手運転になるというのは、決して理想的な状態とは言えないのである。
私が現役で走っていた時代、レーシングカーの多くはHパターンの5速マニュアルが主流だった。だが現在のF1を見れば分かるように、トランスミッションは7速、8速と多段化が進んでいる。もしこれを従来のHパターンのシフトレバーで操作するとすれば、ドライバーはほとんどの時間を片手運転で走ることになるだろう。
実際、F1がまだマニュアルトランスミッションを採用していた時代、1レースで数千回ものシフト操作が必要だった。ドライバーはほぼ片手でステアリングを操作し続けることになり、その負担は想像以上に大きい。
さらにレーシングカーのトランスミッションは、一般車とは構造が異なる。シンクロメッシュ機構を持たない、いわゆるドグミッションが採用されていた。ドグミッションは変速速度が非常に速く、強大なトルクにも耐えられる反面、エンジン回転数とギア回転数を正確に合わせなければギアが入らない。
そのためヒール&トゥを駆使して回転数を合わせる必要があり、これをレース中にミスなく続けるのはプロドライバーでも非常に過酷な作業だった。
常識を覆したシーケンシャルトランスミッションの誕生
当時、多くのレーサーが密かに思っていたことがある。「もしレーシングカーがオートマチックになれば、どれほど運転が楽になるだろうか」ということだ。ドライビングが楽になれば、その分ステアリング操作やライン取りに集中できる。結果としてラップタイムも安定し向上する可能性が高い。
その流れの中で登場したのがシーケンシャルギアボックスである。これはシフトレバーを前後に動かすだけで変速できる仕組みだ。従来のHパターンに比べて操作は圧倒的に速く、シフトミスも大幅に減少した。この技術が導入されると、各サーキットでラップタイムが1秒以上短縮されたとも言われている。
さらに進化したのが、ステアリングのパドルで変速を行うシステムである。パドルシフトを採用すると、ドライバーは常に両手でステアリングを握ったまま変速できる。エンジン回転数の調整もコンピューターとアクチュエーターが行うため、オーバーレブの心配もない。
現在のレーシングカーの多くがこの方式を採用しているのは、極めて合理的な理由によるものだ。理論的には、このシステムを完全に電子制御化すればフルオートマチックのレーシングカーを作ることも可能である。
実際、一時期そうした試みも存在した。しかしドライバーの技術差が出にくくなるという理由から、完全自動変速はレギュレーションで禁止されている。こうした背景を考えると、レーサー出身者の多くがマニュアルトランスミッションに強いこだわりを持っていないというのも理解できるだろう。
完成度は高い一方で問題も
もちろん、市販車のマニュアルにも優れたものは存在する。私が開発に関わった三菱ランサーエボリューションV以降では、耐久レースでもシフトフィールが劣化しないトランスミッションを目標に設計を行った。
具体的には1速から5速までダブルやトリプルのコーンシンクロを採用し、ギア歯面にはショットピーニング加工を施すなど非常に手間のかかった構造になった。その結果、シフトフィールは非常に優れたものとなったが、問題は油温管理だった。
トランスミッションオイルの温度が上がると性能が低下するため、オイルクーラーなどの対策が必要になる。このような事情を考えると、市販車で常に理想的なシフトフィールを維持するのは容易ではない。
一方、近年のスポーツカーではデュアルクラッチトランスミッション、いわゆるDCTが主流となりつつある。ツインクラッチを電子制御することで、ほぼ途切れのない加速を実現できるからだ。
例えば日産 GT-R (R35)や三菱ランサーエボリューションXに採用されたDCTは、その完成度の高さで知られている。ただしDCTは制御が非常に複雑で、油温管理や油圧制御の難しさもある。
さらに興味深いのは、マニュアル操作よりもフルオートモードのほうがラップタイムが速くなることが多いという点だ。サーキットによっては1.5~2秒ほど速くなるケースもある。この事実を知っている人は意外と少ないのではないだろうか。
そんななかで、私が特に印象的なシフトフィールを感じた車がある。「ランボルギーニ ガヤルド LP570-4 スーパートロフェオ ストラダーレ」である。このモデルはシングルクラッチ式のセミオートマチックを採用している。
DCTのように完全にショックを消すのではなく、あえて変速の感触をドライバーに伝えるセッティングになっていた。パドルを操作すると、明確なシフト感が伝わる。それでいて変速は非常に素早く、ドライバーの感覚と機械の動きが見事に調和している。
サーキットでは1速へのシフトダウンも安全に行うことができ、オーバーレブ領域では電子制御が操作をキャンセルしてくれる。安心感という点でも優れたシステムだった。
市販車で感銘を受けたトランスミッションとは?
一方、オートマチックトランスミッションとして感銘を受けたのは「ポルシェ 911」に搭載されるPDKである。このデュアルクラッチシステムは変速速度、耐久性、制御ロジックのすべてが高いレベルにあり、レースでも使用されるほど完成度が高い。
その制御の基礎となっているのが、かつてポルシェが採用していたティプトロニックの技術である。トルクコンバーター式ATでありながら、ギア保持やキックダウン、ロックアップ制御などが非常に巧みに作り込まれており、サーキットでも十分な性能を発揮していた。
こうして振り返ると、トランスミッション技術は長い年月の中で大きく進化してきたことが分かる。そして電気自動車の時代になると、多段変速機そのものが不要になる可能性もある。しかしこれまで培われてきた制御技術は、モーターのトルク制御などで確実に活かされていくはずだ。
そうした観点から私が「最も心地よかったシフトフィール」を挙げるなら、次の2つになる。パドル操作の完成度という意味では、ランボルギーニ ガヤルド LP570-4 スーパートロフェオ ストラダーレのシングルクラッチ。そしてオートマチックとしての完成度では、ポルシェのティプトロニック、そしてPDKである。
これらは単なる変速機ではない。ドライバーの感覚と機械の動きを高い次元で結びつけるスポーツドライビングを心得たメーカーだからこそできるロジックを持ったシステムなのだ。
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