スズキは2021年2月24日、鈴木修会長が会長を退くと正式発表した。6月の定時株主総会後に取締役も退任し、相談役に就くという。
鈴木会長は40年以上にわたり社長、会長として経営のかじ取りを担ってきた。軽自動車で世界大手に成長させ、スズキの礎を築き上げた。
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現在のスズキの成長は鈴木修会長の剛腕による部分が非常に大きい。そこで今回は、スズキをここまで成長させたその功績を振り返っていきたいと思う。
文/桃田健史
写真/SUZUKI、編集部
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■Xデー来たる・・・スズキ大躍進の祖がついに勇退を決断 !!
ついに、その日がやって来た。
スズキの鈴木修会長(91歳)が2021年6月の株主総会を経て、相談役となる。取締役としての役職からも離れることで現役引退だ。とはいっても、御年91歳まで現役という、近年の大手企業では極めてまれな事案である。
鈴木氏は「自分はいつになっても、中小企業の経営者」という持論があり、社員に対しても、販売店に対しても、そしてユーザーに対しても、身近な経営者であり続けた。
スズキ本拠地である静岡県内各所でスズキとのつながりがある人たちにとって、鈴木修会長の勇退は大きな出来事に捉えているはずだ。まさに、大きな時代の節目である。
一方で、別の意味で変わり目と見る向きもある。自動車産業界で以前から言われてきた、「Xデー」である。これは、軽自動車の転換を意味する。
これまでのスズキの「Xデー」の会見には常に鈴木修会長の姿があった。長年にわたりスズキの「顔」であり続け、成長する会社のかじ取りを担ってきた功績は偉大だ
軽自動車に対する車両規格や、税制優遇などについて、国や自動車メーカー各社が見直しを図ろうとしても、鈴木修会長が現役のうちは、各方面からスズキへの配慮もあり物事は大きく動かすことは難しい、という話があちこちから漏れ伝わっていたのだ。
折しも、菅政権が掲げる2050年カーボンニュートラルに関して、次世代車を含むグリーン成長戦略が2020年12月25日に公表された。その中で、軽自動車を含めて「遅くとも2030年代半ばまでに、日本国内で発売する新車100%電動化」と記載した。その後、2021年1月の通常国会の施政方針演説で菅義偉総理は「2035年までに」と目標年を明確した。
そうした中で、トヨタが超小型モビリティの「C+pod(シーポッド)」を発売し、ホンダが軽トラ「アクティトラック」を生産中止するなど、軽自動車のXデーを予見するような動きが出始めている。
鈴木修会長が現役引退を表明した2021年2月24日の記者会見で、長男である鈴木俊宏社長(61歳)は自身の使命として「軽自動車を守ること」と発言している。
■ジムニーとアルトの閃き……ともに修会長の感性と信念で売れるクルマに成長した !!
筆者これまで、スズキに対して世界各地で様々な取材をしてきた。
そうした中で、スズキの浜松本社に隣接するスズキ歴史館を訪れることが何度もあるが、
そのたびにスズキの歩みについて肌感覚で捉えようとしてきた。歴代経営者を振り返ると、やはり鈴木修氏の存在感が最も大きく、そして強いように感じる。
ご存じでない方もいるかもしれないが、そもそも鈴木修氏はスズキ創業者の家系ではない。1930年(昭和5年)1月30日に岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂町)生まれで、中央大学法学部を卒業後、愛知県の銀行員として5年間従事した。
その後、スズキの2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿となり、旧姓松田からスズキに入社したのが1958年だ。時はまさに、高度経済成長の前夜であった。ちなみに、鈴木修氏の義父である鈴木俊三氏は、スズキの創業者である鈴木道雄氏の娘婿である。
さて、鈴木修氏の功績のなかで、現時点でのスズキとの繋がりが強い事案をいくつかピックアップしてみたい。まずは、『ジムニー』だ。
2018年の4代目登場の際、商品コンセプトが原点回帰だったこともあり、初代ジムニー誕生秘話として、当時は常務取締役だった鈴木修氏と、ジムニーのベース車であるホープ自動車との関係について各種の記事化がなされている。こうした各種記事に影響を受け、筆者自身も4代目ジムニーのオーナーとなった。
初代『ジムニー』は元々ホープ自動車が開発した「ホープスター」の製造権をスズキが買い取り、量産化したもの。売れる訳がないと社内の反対を押し切って量産化を決断したのが鈴木修氏だった
現代となりジムニーを深く知ることができたことへの、筆者から鈴木修氏への感謝の気持ちを踏まえて、1960年代後半に初代ジムニー量産に向けた鈴木修氏の決断には、時代の変化を全身で感じ取るような感性があったようにつくづく思う。交渉する相手を、人としてしっかり知ることが第一とし、その上で技術と市場動向を把握する。
これがのちに、コンピューターならぬ鈴木修氏の「勘ピューター」と一部で言われるような独自の経営手腕となり、スズキを世界的な企業へと成長させることになる。
そうしたスズキの成長過程で、極めて大きな出来事が、1979年5月にデビューした『アルト』だ。
「アルト47万円!」というテレビCMは当時、筆者を含めて多くに日本人にとって衝撃的だった。なぜならば、クルマの宣伝はイメージ広告が主流であり、画面に大きく車両価格が表示されることはなかったからだ。
「47万円アルト」の価格を実現すべく徹底的に無駄を排除。エアコンはおろかラジオすらオプションだった。ただ助手席もリクライニングするシートにだけは「お金をかけた」とは修会長の弁
軽自動車の新車は当時でも60万円程度であり、50万円切りの価格設定は、まるでスーパーの大売り出しのような雰囲気だった。これが近年、ももいろクローバーZを採用して展開する「スズキの初売り」のイメージにも直結する。
商用車や、一部の男性向けのクルマというイメージが強かった軽自動車を、主婦を中心とした働く女性向けとして企画されたのが「アルト」であり、1978年6月の鈴木修氏の社長就任をきっかけとしてスズキの大変革の始まりだった。
シートの次にはエンジンにお金をかけた? 今も続く軽自動車の64馬力の自主規制は初代『アルトワークス』の登場がきっかけだった。常識にとらわれない思い切りの良さがスズキの風土となった
当時の主婦層は、50ccの原付バイクを買い物などに使う人が多かったが、原付バイク3台から4台分の価格で買えるアルトは当然のように、よく売れた。スズキによると初代アルトの累計販売台数は84万4000台に達した。
■海外事業への閃き・・自動車産業の未開の地を開拓し、成功を掴んだインドとハンガリーへの進出
別の視点で、鈴木修氏の勘ピューターの大きな成果が、海外事業だ。最初の転機は、1983年のインド進出だ。
鈴木修氏はこの件について各方面での取材で、「アルトで国内事業の拡大を目指しても、四輪後発メーカーとして限界を感じており、どこか(の国)でナンバーワンになるべきだ」と説明している。
ホンダが1970年代にアメリカで成長の可能性を求めたことに似ている発想だ。
そうした中、インド政府関係者が国民車構想の相談で来日した際、鈴木修氏はこの話に乗った。当時のインドはまだ、社会主義的な国家運営であり、いわゆるカントリーリスクが高かったにもかかわらず、鈴木修氏自身がインドの関係者と親睦を深める中で、インドでの可能性を確信したといえる。
グローバルカーとして誕生した『スイフト(2代目)』。スズキが海外進出したインドやハンガリーでも生産され現地での販売も好調。未開の地からグローバルカーを生み出す「勘」も鋭かった
こうした新天地の開発への考え方は、東欧ハンガリーでの事業進出でも同じだ。
まだまだ語り尽くせない、鈴木修氏の功績。ひとまず「長年の激務、お疲れ様でした」と、鈴木修氏に申し上げたい。
修会長の「閃き」エピソードをもう1席。軽ハイトワゴンの元祖となった、『ワゴンR』。そのネーミングは修会長の「アルトもある、ワゴンもあーる」の一言がキッカケだった(諸説あーる?)
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