愛車を見せてもらえば、その人の人生が見えてくる。気になる人のクルマに隠されたエピソードをたずねるシリーズ第88回の前編。俳優の板谷由夏さんが、懐かしの愛車と久しぶりに再会した!
パリでのひとめ惚れ
「すごい! 色まで私が乗っていたのと同じだ!」
撮影場所に用意されたグリーンのシトロエン「BX」を見た瞬間、俳優の板谷由夏さんは歓声をあげた。
そして「ちょっと乗ってみてもいいですか?」とことわりを入れてから、いそいそとドアを開けた。
運転席に座ると、「そうそう、このハンドルでした」と頬を緩めて、特徴的な形状の1本スポークのステアリングホイールに手を添えた。
シトロエンBXは、板谷さんが20歳代の後半に手に入れた初めての愛車だったという。若手俳優がマニアックな選択をしたことが興味深いけれど、BXに乗るようになった経緯の前に、まずは運転免許の取得に遡っていただく。
「私は九州育ちで、高校生の頃から読者モデルのお仕事をさせていただいていました。高校3年生の時に、もっと本格的に仕事をしたいと思って、早く進学を決めてしまいたかったんですね。それで夏には短大への推薦入学が決まって、夏休みに福岡の教習所で免許を取りました。福岡の短大に通っている時期は、母のクルマで運転を練習しました。確かホンダの『アコード』だったと思いますが、よくぶつけていました(苦笑)。短大を卒業してから上京するわけですが、東京に来てしばらくはクルマを持つ余裕はなかったですね」
シトロエンBXとの出会いは、パリだったという。
「お仕事でパリへ行った時に、街角ですごく素敵なクルマを見かけたんです。あの格好いいクルマはどこのメーカーだろうと思って調べたらシトロエンで、いつの日か絶対に乗りたいと心に誓いました。ある時、お仕事でご一緒したスタッフの方がたまたまシトロエンに乗られていたんですね。いろいろとお話をうかがったら、一緒に探してくれることになって、それで緑のシトロエンBXと出会ったんです。27歳の時だったかな。実はシトロエンに乗る前に、友だちからボロボロのアウディを譲ってもらったんですが、自分で買ったのはBXが最初でした」
板谷さんが27歳ということは2002年前後。1982年にデビューしたシトロエンBXは、1993年に後継モデルのエグザンティアに切り替わっているから、最終型でも生産から10年近くを経ていたことになる。故障が多いという悪評もあったシトロエンBXに乗ることに、躊躇はなかったのだろうか。
「何も知らずに、ただ格好いいという理由だけで選んだんです。買ってから、いろいろな人に壊れるぞとか、ガンディーニさんという有名なデザイナーの作品だとか教えてもらったんですけれど……。乗ってみたら、本当によく壊れましたね(苦笑)。クーラーは効かなくなるし、結構お金もかかりました」
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ここでシトロエンBXを簡単に紹介したい。
1970年代後半のシトロエンのモデルラインアップには、小型実用車のシトロエン「GS」と大型サルーンのシトロエン「CX」の間に大きなギャップがあった。この隙間を埋めるために開発された中型車がシトロエンBXで、板谷さんがおっしゃるようにランボルギーニ「カウンタック」やランチア「ストラトス」を手がけたことで知られる鬼才マルチェロ・ガンディーニがデザインを担当した。
信頼性の低さは、主に「ハイドロニューマチック」という独自のサスペンションシステムに起因した。「HYDRO(水)」と「PNEUMATIQUE(空気圧)」を組み合わせたこの仕組みは、エアサスペンションと油圧機構を組み合わせたもので、金属のバネや一般的なショックアブソーバーを持たない。ふんわり軽い、快適な乗り心地を提供するいっぽうで、複雑な構造がしばしばトラブルを招いた。また、サスペンション、ブレーキ、パワーステアリングなどが同じ油圧ラインを用いるので、一カ所が壊れるとクルマ全体が動かなくなってしまうという大きな弱点もあった。
「でも私は3年乗ったんですよ。外装も内装もデザインが大好きだったし、サスペンションが油圧でポーンと上がったり下がったりする感じも好きでした。パリで見たBXと同じにしたくて、ヘッドランプも黄色に換えてもらってご機嫌でしたね。幸いなことに、出先で動かなくなるようなトラブルはありませんでした。でもトランクを開けたら電気の配線がベローンと落ちてきたことがあって、あれにはびっくりしましたね。そうだ、一度だけ、出かけようとしたら油圧が上がらなくなることがありました」
シトロエンBXでのドライブで思い出に残っているものを尋ねると、板谷さんは「箱根です」と即答した。
「箱根に、芸能の神様がいる神社があるんです。20歳代の後半は思うような仕事ができていなくて、BXでよくお参りに行きました。もっと仕事が忙しくなりますように、いいお仕事がいただけますように、とお願いをしていましたね」
ご存知のように板谷さんはその後、俳優としてだけでなくニュース番組のキャスターを務めるなど、幅広く活躍することになる。シトロエンBXとの箱根詣のご利益があったのかもしれない。
板谷さんは撮影が終わってからも、名残惜しそうにシトロエンBXの内外装を隅々までチェックする。その様子からは、本当にこのクルマを気に入っていたことが伝わってくる。
取材の終わりに板谷さんは、「私が乗っていたクルマとまったく同じなんですよ」と、つぶやいてから、「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げた。
「最近は街でこのクルマを見かける機会もほとんどなくなったので、この子に会えてすごくうれしいです。あの頃のことが、いろいろと蘇ってきました」
後編となる次回は、板谷由夏さんがシトロエンBX以降に乗ったクルマと、いま気になっているというニューモデルを紹介する。
板谷由夏(いたやゆか)
1975年生まれ、福岡県出身。99年に『avec mon mari』で映画デビュー。数多くの映画やドラマに出演している。俳優業に主軸を置きつつも、『NEWS ZERO』ではキャスターを11年間務めたほか、映画情報番組『映画工房』ではMCを12年半担当した。またファッションブランド「SINME」のディレクターを務めるなど幅広く活躍している。2026年4月17日(金)夜9時よりテレビ東京系列にて放送開始のドラマ9『刑事、ふりだしに戻る』に、川島久美役で出演する。
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文・サトータケシ 写真・安井宏充(Weekend.) ヘア&メイク・冨沢ノボル スタイリング・間山雄紀(M0) 編集・稲垣邦康(GQ)
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