底知れぬフランス車の魅力を覗いてみよう
フランスは歴史的に、革新的な自動車デザインを数多く生み出してきた。エキゾチックな高級車だけでなく、大衆に普及させることを目的とした安価な乗用車も、魅力的で興味深いものばかりだ。
【画像】唯一無二の美しいシルエット【シトロエンDS19とブガッティ・タイプ57の詳細を見る】 全35枚
プジョー、ルノー、シトロエン、シムカ、マトラ、ブガッティ、ドライエなど、今回は自動車史に名を残した最高のフランス車を21台、アルファベット順で紹介していきたい。
アルピーヌA110
今日、スポーツカーとして高く評価されているアルピーヌA110は、1961年に発売された初代A110に多大な影響を受けている。この初代モデルは、グラスファイバー製のボディを採用した先駆的なクーペ、A108の後継車だ。その魅力をさらに広めるために 4シーターのGT4バージョンも生産されたが、アルピーヌの象徴的なモデルとなったのは、流線型の2シーターだった。
発売直後からモータースポーツでも成功を収め、ルノー製のリアエンジンは徐々にパワーアップし、最高出力は140psまで向上した。これにより、ラリーで優れたポテンシャルを発揮したが、限界域では扱いを難しくする要因にもなった。それでも、初代A110は上位モデルのA310と並行して1977年まで生産され、ブラジル、ブルガリア、スペイン、メキシコでも生産が行われ、総生産台数は8139台に達した。
ブガッティ・タイプ35
1924年にタイプ35が発売された当時、エットーレ・ブガッティ氏の作るクルマは、すでにその性能とハンドリングで富裕層やレーサーの間で地位を確立しつつあった。当初は2.0Lの自然吸気直列8気筒エンジンを搭載していたが、レースでの競争が激化すると、スーパーチャージャーを搭載した35Cモデルも登場した。続く35Tは、スーパーチャージャーは搭載していなかったが、2.3Lエンジンを使用。シリーズ最後のモデルは、より大型のエンジンと過給機を搭載した35Bだった。
タイプ35は、生産期間中に2000以上のレースで優勝し、それ以降も数多くの勝利を収めている。750kgの車体に最大140psのパワーを秘めたこのクルマは、高速でハンドリングも優れていた。ブレーキドラムを組み込んだ鋳造合金ホイールにより軽量化を図り、その結果、ほとんどのバージョンにタイプ35独特の8本スポークのホイールが採用されている。
シトロエン2CV
アンドレ・シトロエン氏は社名に自身の名を冠したものの、2CVの独特なデザインはピエール・ブーランジェ氏(1885-1950)の考案だ。第二次世界大戦前に開発された初期のプロトタイプは、単灯ヘッドライトと波形ボディを備え、ドイツ占領軍の手に入らないよう納屋に隠されていた。戦後、1948年に量産型2CVが発売されたが、当初の売れ行きは鈍かった。
しかし、2CVの柔らかいサスペンションとシンプルな構造が評価され、シトロエンの英国スラウ工場でも生産が開始された。空冷式フラットツインエンジンは徐々に排気量と出力を増やし、最終的に602cc、最大出力31psに達した。生産は1990年まで続き、380万台の2CVが出荷され、ミニやフォルクスワーゲン・ビートルと並ぶレジェンドとして確固たる地位を築いた。
シトロエンC6
CX、GS、XMなど、ここで紹介するのにふさわしいシトロエンのモデルは数多くある。しかし、C6を取り上げたのは、アウディ、BMW、ジャガー、メルセデスなどの競合他社が保守的な路線を選択した中、あえて異なる道を歩んだからだ。まず、C6のデザインは、凹型のリアウィンドウなど、革新的だったCXの要素を継承している。
C6のオリジナルデザインは2000年に発表される予定だったが、実際にショールームに登場したのは2005年のことだった。その前から、フランスのジャック・シラク大統領は試作段階のC6を自身の愛車として使用していた。電子制御のハイドラクティブ・サスペンションによる滑らかな乗り心地を考えれば、その理由も容易に理解できる。
シトロエンDS
フランス車を代表する1台といえば、多くの人はシトロエンDSを思い浮かべるだろう。DSは、セーヌ河周辺のシックな雰囲気を象徴するクルマとして知られているが、そのような表面的な印象だけでは、この偉大なシトロエンの真価を十分に表現することはできない。1955年に発売された当時、DSは、当時の米国車の過剰なスタイリングでさえも及ばない、衝撃的なほど大胆で斬新なデザインだった。その洗練されたラインは、液体と気体を用いたセルフレベリング・サスペンションと見事に調和し、驚くほど滑らかな乗り心地を実現していた。
DSの唯一の足かせは、トラクシオン・アヴァンから引き継いだ1.9Lエンジンだったが、後に大型エンジンに切り替えられ、最終的にはDS23に2.3Lのフューエルインジェクションエンジンが搭載された。また、DSと同じ外観ながら、信頼性の問題となった複雑なサスペンション機構を省いた、安価なIDも発売された。
ドライエ135
ドライエは長年にわたり、地味で堅実なクルマを生産してきたが、1935年にスポーティな135を発売して、突然方向転換を図った。一見、3.2L直6エンジン(サーキット用エンジンをシャシーに搭載)の最高出力は95psまたは110psと、あまり期待の持てるスペックではなかった。しかし、135は速さとパワーを見せつけ、1938年にロブ・ウォーカー氏がブルックランズで運転した1台が「英国最速のロードレーシングカー」となった。
135は戦後も、大型の3.6Lエンジンと、4速マニュアルまたはコタル(Cotal)製プリセレクター・トランスミッションを搭載して生産が続けられた。この段階でも、135はすべて右ハンドル(フランスの道路では逆側)で生産されていたが、これは戦前のコーチビルドの慣習の名残だった。
ファセル・ヴェガHK500
ファセル・ヴェガはコーチビルダーだったが、1954年に最初のモデル『FV』で自動車生産に乗り出した。このスタイルは1958年にHK500へと進化し、米国クライスラー製の6.0L V8エンジンを搭載した。360psものパワーを誇るHK500は、当時欧州で最もパワフルなクルマの1つだった。しかし、初期のモデルは、1960年にフロントディスクブレーキが採用されるまで、性能の劣るドラムブレーキが使われていた。
とはいえ、最大のセールスポイントは性能ではない。HK500はラグジュアリーGTであり、キャビンは非常に豪華なものだったが、ウォルナット材のような見た目の大型ダッシュボードは実際には塗装された金属板だった。
ジェンティ・エイキロン
フェラーリやマクラーレンのような名門ブランドを脅かすハイパーカーが次々と発表されている中、フランスから登場した数少ないモデルの1つがジェンティ・エイキロン(Genty Akylone)だ。最高速度350km/h、0-100km/h加速2.7秒と、スペックに不足はない。ツインターボチャージャー付き6.0L V8エンジンから発生する1200psものパワーにより、静止状態から300km/hまで2.5秒で到達すると予測されている。これは、マクラーレンP1を上回るタイムだ。
エイキロンは15台ほどが生産された。
リジェJS2
リジェは、ロードカーよりもモータースポーツ分野で知名度が高いメーカーだが、JS2は、元レーシングドライバーで元ラグビー選手でもあるギ・リジェ氏が、公道走行重視の顧客をターゲットに開発したモデルだ。アルピーヌA110を彷彿とさせる、シンプルで頑丈なスチール製のチューブフレームに、グラスファイバー製ボディを載せている。1970年の発売時、シトロエンSMと同じ2.7L V6エンジンを採用したが、プロトタイプにはフォードのV6エンジンが搭載されていた。
JSという車名は、リジェ氏の親友であるレーサー、ジョー・シュレッサー(Jo Schlesser)氏にちなんだものだ。1970年から1977年にかけて、JS2は150台しか生産されなかった。その主な理由は価格の高さと、リジェがロードカーの販売よりもレース活動に注力していたためだ。
マトラ・バゲーラ
マトラ・バゲーラがフランス最高の自動車の1つに数えられるようになった理由は、圧倒的なパフォーマンスを持っていたから……ではない。このクルマを際立たせたのは、その革新的な設計だった。まず、ロードカーにミドシップエンジンを採用した初期のモデルでありながら、3人の大人が快適に座れるキャビンを確保していた。さらに、スチール製のスペースフレームに複合素材製のボディパネルを組み合わせていた。
このシャシーとトーションバーサスペンションにより、バゲーラは優れたハンドリングを実現した。シムカ製のエンジンがもっとパワフルで洗練されていれば、バゲーラはセンセーションを巻き起こしていただろう。それでも、1973年から1980年までの間に4万7802台が販売された。
マトラ・ジェット
非常に美しいクルマであるマトラ・ジェットは、アルピーヌA110と同様に、ルノー8のエンジンとトランスミッションを効果的に採用したフランス製スポーツカーだ。最高出力は72psという控えめなものだが、グラスファイバー製のボディにより、車両重量はわずか615kgに抑えられている。
デザイナー、ルネ・ボネ氏の航空工学の知見がジェットの構造にもはっきりと表れているが、そのおかげで販売価格は高くなり、十分な台数を捌くことができず、利益を上げられなかった。最終的に1681台のジェットが生産され、マトラはF1や耐久レースといった大舞台に躍り出た。
マトラ・シムカ・ランチョ
フランスの自動車メーカーは、バンを改造してシンプルな乗用車を作ることに長けているが、マトラ・シムカ・ランチョは、単なる部品の寄せ集めにとどまらない存在だった。地味なシムカ1100 VF3バンをベースとし、後部座席、窓、そしてスポットライトなど、オフロード仕様のさまざまな装備が追加された。
四輪駆動でもなければ、大型ホイールやオフロードタイヤも装備されていない。しかし、ランチョはオフロード性能に欠けるものの、スタイリッシュな威風でそれを補い、多くの購入者に愛された。1.4Lのガソリンエンジンは鈍重だったが、1977年から1984年の間に5万6700人がランチョを購入した。
MPMエレリス
もっと成功していてもおかしくないフランス車は数多くあるが、その中で、MPMエレリスは最も評価に値するクルマの1つだ。4ドア・クーペとして設計され、高所得層ではなく一般大衆を対象としており、価格は1万6500ユーロ(約270万円)からと、ごく普通の乗用車と肩を並べるものだ。
PSA製の1.2Lターボガソリンエンジンを搭載し、最高出力130psと控えめな性能だが、同クラスの他車よりも約25%軽い軽量ボディでそれを補っている。
MVSヴェンチュリ
ポルシェ911へのフランス流の対抗馬、というのがMVSヴェンチュリとその後継車であるアトランティックについてよく使われたフレーズだが、実際にはロータス・エスプリとの共通点の方が多かった。ミドシップエンジンの2シーターで、スチール製のシャシーに複合素材ボディを載せている。販売台数は2車種合わせて750台程度と、ポルシェとの比較はまったく成り立たなかった。
ヴェンチュリ260は最高速度270km/h、0-100km/h加速5.3秒と速く、アトランティックは最高速度275km/h、0-100km/h加速4.9秒を記録した。エンジンは、PRV(プジョー・ルノー・ボルボ)の3.0L V6ターボだが、このユニットは重量があり、ハンドリングにはマイナスに働いた。
プジョー205 GTI
1980年代のアイコンであるプジョー205 GTIは、それ以降に登場したほぼすべてのホットハッチと比較されてきたことから、間違いなく史上最高のフランス車の候補の1つにふさわしい。当初のモデルは、最高出力105psの1.6Lエンジンと、わずか805kgの車両重量により、高速で非常に俊敏な走りを実現していた。よりパワフルな130psの1.9Lエンジンではさらに俊足になったが、1.6Lエンジンの繊細さが少し失われたという意見もあった。
プジョーは、コーナーの途中でテールハッピーに陥りやすいという指摘に対応するため、後期型ではサスペンションを少し柔らかくした。それでも、当時のホットハッチで、全開で走らせるときの興奮度で205 GTIに勝るものはなかった。ピニンファリーナがデザインしたコンバーチブルモデル『CTi』も1986年に登場した。
プジョー203
1948年に発表されたプジョー203のデザインは、明らかに米国車の影響を受けていた。ふくらみを持たせたワイドなフロントエンドと傾斜したリアルーフラインは、ライバル車の直線的なデザインとは対照的だった。
中身はさらに革新的で、このクラスでは新しかった油圧ブレーキを採用。また、コイルスプリング式独立懸架フロントサスペンション、ラック&ピニオンステアリング、そして1954年から導入されたシンクロメッシュ式トランスミッションも特徴的だった。当時の時代背景を考えると、すべてが画期的な技術だった。エンジンも同様で、アルミニウム製ヘッドと高回転特性を備え、203はラリーでの優勝常連車となった。
プジョー504
504は、旧式化した404の後継車として開発されたが、両モデルは7年間並行生産された。ディスクブレーキを全輪に採用し、フューエルインジェクションを標準装備した非常に現代的な大型セダンである。標準のコマーシャルや8人乗りのファミリアーレなど、ステーションワゴンもラインナップされた。
スタイリングはピニンファリーナが担当し、同社が1.8Lおよび2.0Lガソリンエンジン搭載の504クーペ/カブリオレも生産した。これらのモデルは、PRV製のドゥヴランV6エンジンを初めて搭載した市販車だった。
ルノー4
4は、ルノー初の前輪駆動車だった。シトロエン2CVの直接のライバルだったが、その役割は、603ccの非力なエンジンを搭載した廉価版のルノー3にほとんど奪われてしまった。4には、845ccまたは1108ccの4気筒エンジンと、その前方にトランスミッションが搭載され、ダッシュボードから突き出た2CV風のシフトレバーが特徴だった。
ライバル車同様、ルノー4はフランスの田舎道に対応するため、ソフトなサスペンション設定を採用している。しかし、トーションバー式サスペンションの配置の都合上、車体左側のホイールベースが右側よりも短いという奇妙な特徴がある。それでも4は商業的に大成功を収め、31年間にわたって生産され、四輪駆動車やビーチカーのプレインエアなどを含む全モデルで合計813万5424台が販売された。
ルノー8
1962年の発売当時、ルノー8のデザインは保守的に見えたかもしれないが、その中身は先進的だった。競合他社の間でまだドラムブレーキが主流だった当時、ルノーは全輪にディスクブレーキを採用した。サスペンションは独立懸架式で、ダッシュボードにシフトボタンを備えたオートマチック・トランスミッションも選択可能だった。
8のほとんどのモデルは最高出力53psの控えめなエンジンを搭載しているが、レーシーなゴルディーニバージョンは90psのエンジンを搭載し、最後の1300モデルは103psという驚異的なパワーを発揮した。重量が853kgしかないクルマとしては、悪くない性能だ。ゴルディーニはスポットランプと制動力を高めるブレーキサーボが装備され、白のストライプが入った青のカラーリングのみで販売された。
ルノー・クリオ
クリオの代わりにルノー5を取り上げてもよかったが、築き上げた名声においてはクリオが勝者だ。1990年の発売から30年以上経った今でも、同じ名前で生産され続けており、その人気が衰える気配はまったくない。3ドアと5ドアのボディがあり、さまざまなガソリンエンジンとディーゼルエンジンが搭載されていた。
初代クリオの中で最も印象的なのは、グループAのモータースポーツへの参戦資格を得るために2500台が生産されたウィリアムズモデルだ。ルノーがウィリアムズの成功を活かし、2つの後継車を投入して合計1万2100台ものクリオ・ウィリアムズを生産したことに、このクルマの購入者は少し不満を抱いた。
シムカ1200Sクーペ
シムカ1000セダンの堅苦しい直線ボディからクーペへの変貌は息をのむほどで、ベルトーネによるデザインと聞けば納得だ。イタリアのベルトーネはボディの組み立ても行っており、特別に改造された列車でフランスに輸送し、現地で完成させた。
当初、1000モデルはパワー不足が指摘されていたため、1967年に1200Sモデル(写真)にアップグレードされ、最高出力は以前の52psから62%増の80psとなった。クーペには全車、全輪ディスクブレーキが搭載されており、これは1000セダンから引き継いだプラットフォームの唯一の機械的アップグレードであった。
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