2004年デトロイトショーで突如現れたスーパースポーツカー、クライスラー「ME four-twelve」の悲運
モータージャーナリストの中村孝仁氏が、世界に広がる豊富な経験談を今に伝える連載コラム。今回は、2004年のデトロイトショーでベールを脱いだクライスラーのミッドエンジンスーパースポーツ「ME four-twelve」を取り上げる。AMG製6.0リッターV12エンジンに4基のターボを組み合わせ、最高出力850hpを誇る圧倒的なパフォーマンスを秘めていた。ダイムラー・クライスラー時代に1年足らずで開発されながら、夢と散った幻のプロトタイプカーの悲しすぎる運命を見ていこう。
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100年に一度の変革期における「ダイムラー・クライスラーで世界一」への野望
今思えば、1990年代は自動車業界にとって大波乱の時代だったように感じる。それに続く100年に一度の自動車大変革時代を今迎えているわけだから、この激動の時代がどのように収束するかをしっかりと見届けたいと思っている。
1990年代の大波乱の始まりには、ふたつの要因があった。そのひとつは燃料電池という、全く新しい動力源の出現だ。結果としていくつかの自動車メーカーは、自力での生き残りを断念することになる。その代表例がボルボだ。彼らはフォード・プレミアグループに属したが、今は中国ジーリーの傘下となっている。もうひとつの要因は、当時自動車が過剰生産に陥り、数を販売する能力が問われた時代だったことだ。そしてグローバル化が進み、いわゆる地域密着だけではメーカーとして生き残れない時代を迎えていた。
自動車の歴史の開祖であるダイムラー・ベンツ(当時の会社名)も、真剣にそれを考えたメーカーのひとつだった。彼らの出した答えは、フルラインナップ化やM&Aによるメーカーとしてのさらなる拡大だった。
思い返してみると、まだ1990年代前半のメルセデスは、いわゆる高級車専業ブランドだった。それが1990年代を通じて「Aクラス」や「Bクラス」を投入し、ニッチ市場には「SLK」や「CLK」などを投入していく。超小型車を時計メーカーのスウォッチとともに作り上げる時代へと突入rした。そして来るべきSUV時代を見据えてか、アメリカのタスカルーザに工場を新設し、そこから「Mクラス」を世界に向けて発信する準備を整えていたのだ。
こうした変革は、同社のCEOが1995年にユルゲン・シュレンプへ引き継がれてから始まった。そしてさらなる拡大を進めた結果、到達したのがダイムラー・クライスラーの誕生だ。北米3位の自動車メーカーと合併したことで、ダイムラー・クライスラーは世界第3位の自動車メーカーへと躍進した。1998年のことだ。シュレンプの野望は世界一になることにあった。
クライスラーとは対等合併と称していたものの、それがダイムラー主導であることはすぐに発覚した。クライスラー側のCEOだったボブ・イートンはすぐに退任し、ダイムラー側からヴォルフガング・ベルンハルトが社長兼COOとしてやってきたのだ。もっともこの時代のクライスラーは、ある意味で最も華やかな時代だったと言っても過言ではない。結果的に市販には至らなかったが、当時としては驚くべき性能を誇ったコンセプトカーを送り出したからだ。
AMG製V12エンジンに4基のターボを搭載する驚異的なミドシップスポーツカー登場!
その名も、クライスラー「ME four-twelve」だ。2004年のデトロイトショーでベールを脱いだそのクルマは、今になってもその輝きを失わない稀有なモデルだ。
当時クライスラーには、シボレー「コルベット」をライバルとする、ダッジ「バイパー」が存在していた。どちらもフロントにエンジンを搭載する古き良き時代のスポーツカーだが、アメリカでは確かな人気を誇っていた。これに対してME four-twelveは、車名のMEが示す通りミッドエンジン車だった。シボレー「コルベット(C8型)」がミッドシップのスポーツカーとして市場投入されたのは記憶に新しいが、それよりも16年も早く、ミッドエンジンのアメリカン・スーパースポーツが誕生するかもしれなかったのだ。
車名のMEはミッドエンジンを表し、残りのfour-twelveは4基のターボと12気筒を意味している。もちろんその当時、クライスラーは12気筒エンジンなど持ち合わせていなかった。使われたエンジンは、メルセデスAMG製の6.0リッターV12だ。これに4基のターボを搭載したそのパフォーマンスは850hpに達し、現代でも立派に通用する性能を有していた。組み合わされたトランスミッションは、リカルド製の7速DCTだ。このあたりの構造も、今見ても全く色褪せない立派なものだった。
わずか1年未満の開発期間とカーボンファイバーを駆使した前衛的な車体造り
驚くべきは、このクルマが1年に満たない開発期間で作り上げられたことだ。主導的立場にいたのはCOOだったヴォルフガング・ベルンハルトだ。エンジンのチョイスについても、彼はクライスラーにやってくる前はAMGのトップを務めていただけに、交渉は比較的容易だったようだ。そしてベルンハルトは「我々はまずエンジンから着手し、それを中心に車を構築していった」と語っている。通常のアプローチとはある意味で真逆の選択だった。
エクステリアのデザインはブライアン・ニーランダーのスケッチが選ばれ、インテリアはその前年にデビューしたダッジ「トマホーク」を作り上げたマーク・ウォルターズが担当している。
2004年のデトロイトショーに登場したこのクルマは、ステージの上にヴォルフガング・ベルンハルトが自らドライブして現れた。その革新的なスタイルは今見ても立派に通用する美しさだ。シャシーはカーボンファイバーとアルミハニカムを巧みに使い、ボディもカーボンファイバー製で仕立てられている。この時、その現場にいた筆者も、クルマを見てかなり興奮したことを覚えている。日本のモーターショーではクルマがエンジンをかけてステージ上に登場するなどあり得ないことだが、当時のアメリカではそれがまかり通っていたのだ。
ヴェイロン並みの価格とメルセデスの高すぎるプライドが阻んだ市販化への道
ショーカーは比較的綺麗な内装を持っていたが、後にテストカーとして登場したモデルは、内装がほぼカーボンむき出しのスパルタンな状態だった。つまり、彼らは本気でこのクルマの生産を目論んでいたと言っても過言ではない。その時点でダイムラー・クライスラーのCEOだったディーター・ツェッチェも、「このクルマはコンセプトカーではなくプロトタイプです」と語るほどだった。
では何故、生産に至らなかったのか。諸説あるものの、ひとつはコストの問題だ。この当時はスーパーカーが氾濫するように登場した時代だった。ブガッティからは「ヴェイロン」、パガーニはME four-twelveと起源を同じにするエンジンを積んだ「ゾンダ」をデビューさせ、フェラーリは「エンツォ」を、そしてポルシェは「カレラGT」を次々と投入していた。しかし、ミニバンやトラックを作るクライスラーのエンブレムが付いたスーパーカーに、果たしてヴェイロン並みの対価をユーザーが払うだろうかという懸念があったのは間違いない。
もうひとつの理由は、当時のメルセデスの最高峰スポーツカーであった「SLRマクラーレン」の存在だ。ME four-twelveがその性能を凌駕してしまうのは間違いなく、それをクライスラーブランドで投入することに対して、プライドの高いメルセデスの役員たちがゴーサインを出せなかったというのが理由のひとつと言われている。いずれにせよ、実に勿体ないクルマが歴史に埋没することになってしまった。ショーに登場した1台と、後にテストに供された1台の合計2台が生産されたと言われている。
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この記事で言うほど力入れてた訳ではないのでは?