この記事をまとめると
■デ・トマソ創業者アレハンドロは政変で祖国を追われイタリアで自動車メーカーを設立
なんとエンジンフードがガルウイングの衝撃! デ・トマソ・マングスタは中身もスーパーだった
■巧みな人脈と交渉術でフォードとの提携やパンテーラの成功を実現した
■品質問題や経営難を抱えながらも自動車史に残る強烈な足跡を残した
自動車史に強烈な存在感を刻んだ伝説の男
いまどきアルゼンチンといえば、誰しもメッシの名を思い浮かべるでしょうが、クルマ好きとしてはデ・トマソの名も忘れるわけにはいきません。おりしもスーパーカー「P72」の復活も噂されているので、彼がたどった波乱万丈な生涯をたどってみるのも悪くないでしょう。それにしてもアレハンドロ・デ・トマソしかり、リオネル・メッシしかり、アルゼンチンというのは胸アツエピソードの宝庫に違いありません。
1928年、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの超名門政治家の家に生まれたアレハンドロの半生は、映画さながらの政変から始まります。1950年代、フアン・ペロン独裁政権の転覆計画に加担し、自らのプライベート機で反政府軍へ武器を密輸していたことが発覚。1955年に彼は全財産を没収され、祖父の故郷であるイタリアへ「着の身着のまま」逃亡を余儀なくされました。
しかし、ここからがアルゼンチン人の真骨頂。無一文の亡命者でありながら、彼は貴族のような振る舞いを崩さず、ボローニャの名門レースファクトリー「OSCA」にテストドライバーとして潜り込むことに成功。さらに1957年には、政権交代(ペロンの追放)に乗じて地元のアルゼンチンGPへ凱旋を果たしています。プライベート・フェラーリのシートを政治力でもぎ取り、F1デビューを飾るのですが(総合9位)通算戦績はわずか2戦、ポイント獲得はゼロでした。彼にとってF1とは、速さを競う舞台ではなく、のちに大衆を煙に巻くための「元F1レーサー」という最高級のハッタリ作りに最適だったのです。
その後のアレハンドロの運命を決定づけたのは、1956年のイザベル・ハスケルとの出会いでした。日本のメディアでは長らく「フォード家の令嬢(あるいは親戚)」と誤認されてきましたが、実際はGM創業者ウィリアム・C・デュラントの孫娘。さらに実家はフォードへ広範な部品を納める大株主「ローワン社」でした。
当時の男尊女卑なレース界で自らハンドルを握るお嬢さまの情熱を、アレハンドロはその圧倒的な「人たらし」のカリスマ性で瞬時に射止め、1957年に結婚(このときの写真はアレハンドロのドヤ顔で有名)。これこそアメリカ自動車界の2大巨頭に直結する、無限の資金力とコネクションを手に入れた瞬間です。
そうして1959年、モデナにちゃっかりと「デ・トマソ」を設立。初の市販車「ヴァレルンガ」に積まれたのは、英国フォードの大衆車用エンジンでした。自前でパワーユニットを開発する金と技術を節約し、他社の既製品を美しくパッケージングして高値で売る手法。この「効率的な寄せ集め」手法こそ、彼のスポーツカー作りの基本戦略となったのでした。
ところで、1960年代にヘンリー・フォード2世はフェラーリの買収に失敗し、屈辱に震えていました。アレハンドロはこの隙を逃すことなく、妻の実家の資金でイタリアの名門カロッツェリア「ギア」や「ヴィニャーレ」を買い叩き、巨匠ジウジアーロに美しいボディを描かせます。そうして誕生した「マングスタ」に、フォード製V8を搭載。当時のフォードでレース部門の花形マシンだったシェルビー・コブラを「喰い殺す天敵(マングース)」の名を冠し、公然とフォードを挑発したのです。
天賦の才でビジネスを拡大
このハッタリに見事に引っかかったのが、当時フォードの副社長だったリー・アイアコッカ。アレハンドロと同じくイタリア系移民の血を引く彼は、「欧州スーパーカーへの憧憬」と「フェラーリへの復讐心」を巧みにくすぐられたということ。その結果、デ・トマソは1969年にフォードとの全面提携を取り付けることに成功。そればかりか、安値で仕入れたギア社の株を、フォードに超高値で売りつけるなど、アレハンドロの策略はものの見事にハマったのでした。
1971年になると、フォードの資金とネットワークを背景に、伝説の「パンテーラ」が誕生。リンカーン・マーキュリー・ディーラーで大々的に販売され、北米市場は熱狂したものの、大量生産のノウハウをもたないモデナの工場から出荷されたクルマは、文字どおりの「欠陥品」でした。雨漏り、電気系統のショート、ボディの歪みは日常茶飯事。ヘンリー・フォード2世が試乗した際、エンジンが始動しないことに激怒して、杖でボンネットを叩き壊したというエピソードが残されているほど。
それでもアレハンドロは悪びれることなく「だったらもっといいエンジンをよこせ」といい放ったとのこと。細かな品質管理よりも、動くこと、そしてなにより情熱的に見せるハッタリを優先する、アルゼンチンのおおらかな国民性が露呈したシーンといえるでしょう。
その後にオイルショックが世界を襲うと、大排気量スポーツカーの時代が終焉を迎え、フォードが撤退を模索し始めると、アレハンドロの「世渡り」は最後の輝きを放ちました。彼は弱気になるどころか「撤退するなら契約違反で訴える」と巨頭を脅迫。泥沼を嫌ったフォードから巨額の和解金をむしり取ったうえで、不要となったパンテーラの製造権や近代化された工場を「タダ同然」で買い戻すという荒業を披露。
その後も彼はイタリア政府の公的救済資金(GEPI)をATM代わりに使い、マセラティやイノチェンティ、バイクのモト・グッツィを「1リラ」の元手で買収。それでも、高級車マセラティを大衆化させたビトゥルボ・シリーズをヒットさせ、同社の延命に成功しています。しかしながら、それも長続きすることなく、1990年代には品質不足によるブランドの失墜、さらに自身を襲った脳卒中により、アレハンドロの帝国は急速に求心力を失っていったのでした。
彼がモデナの豪邸で息を引き取ったのは2003年、74歳の生涯でした。その際、最愛の妻だったイザベルの姿はベッドサイドにはなく、すでに彼女はアメリカへと去っていたのです。これを指して天罰と呼ぶ人もいるでしょうが、孤高の人、アレハンドロらしい最期ともいえるのではないでしょうか。
噂されている「P72」が放つ美しさは非常に魅力的ですが、かつてのアレハンドロ・デ・トマソという男が駆け抜けた足跡とは、あまりにも対照的。
壮大なビジョンと思い込み、精度と不屈の野心と詰めの甘さが同居していた往時のデ・トマソは、美しくも、どこか危うい、まさにアルゼンチンというお国柄そのものの表徴のようでもある気がしてなりません。
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みんなのコメント
ダイハツシャレードデ・トマソは、イタリアンホットハッチ風でカッコ良かった(アウトビアンキみたいな?)
しかしそうなると、パンテーラ計画の躓きのためにフォードの社長レースから脱落し、やがて転籍先のクライスラーでも再びデ=トマソと組んでは、TCbyマセラティという失敗作を繰り出すことになったリー・アイアコッカの立場はどうなるのだろう?とも思う。