クルマ作りのあるべき姿を最後まで追求した、愛あるプラントだった
「スカイラインの父」こと故・櫻井眞一郎氏は、初代から開発に携わり、2代目S50型から7代目R31型の途中まで開発責任者を務めた技術者だ。オーナーやファンから敬意を込めてそう呼ばれた櫻井氏がこの世を去ったのは、2011年1月17日のこと。没後15年の節目に、生前のインタビューをもとにその言葉を特別寄稿として紐解く。第9回は櫻井氏が語る村山工場のエピソードだ。村山工場はプリンス自動車の主力工場。そこには、スカイラインを愛する心とクルマ作りのあるべき姿が詰まっていた。
「村山工場で生まれたスカイラインは幸せなクルマ」名車と呼ばれた理由をスカイラインの父・櫻井眞一郎が明かした設計と現場の絆【櫻井眞一郎没後15周年特別寄稿vol.8】
設計と工場のよい関係。村山には名車が生まれる環境が整っていた
前回も少し触れたが、設計を担っていた荻窪工場と、生産を行なっていた村山工場は、本当によく似ていた。どちらにもプリンス自動車の文化、モノ作りに対する姿勢が色濃く息づいている。日産の工場とは、クルマづくりに対する考え方そのものが違っていたのだと思う。
クルマを造る過程での苦労は、数え切れないほどあった。当時、工場とわれわれとの間に人間関係の軋轢はまったくなく、あうんの呼吸で仕事ができたのである。新車開発が佳境に入り、村山工場でどうしても手を入れなければならない段階になると、「身体でクルマの出来を感じよう」と言って、一緒にテストコースを走った。工場試験でニューカーを走らせる際にも、「一緒に乗ってみてください」と声をかけてくれる。そういう関係だった。
村山工場は、まさに名車を生む工場だった。スカイラインと共通ラインで生産されていたローレルは、ハイオーナーカーとして不動の地位を築いた。マーチも世界に誇れる傑作コンパクトカーへと成長している。いずれもきめ細かな改良を重ねながら商品性を高め、結果としてロングライフモデルになった。
ケンメリ・スカイラインのオフライン式で見せた工場の粋な気配り
村山工場の閉鎖が決まったとき、「この工場から離れたくない」という従業員が大勢いた。みんな、村山に強い愛着を持っていたのである。どこか浪花節的だったのかもしれないが、本当に素晴らしい工場だった。あれこれと調整しなくてはならないような苦労はなく、工場からギスギスした書類が上がってくることもない。「ユーザーに喜んでもらおう」という目的意識が、工場全体で共有されていたからだ。そして何より、気が利いていた。
いくつか事例を挙げよう。ケンとメリーのスカイラインの最終段階で、当時の社長から「ボディラインにストライプを入れろ」という指示が出たことがある。わたしは断固として入れたくなかったのだが、最終的には白いボディにだけストライプを入れることにした。ただ、工場からオフラインするときには式典があり、白以外のクルマには当然ストライプが入っていない。困り果てていると、工場側が気を利かせて、白いスカイラインだけを並べてくれたのだ。ストライプを貼ることで工数が増え、手間がかかるにもかかわらず、である。あれには本当に感激した。
スカイラインは工場と設計が一体となり、磨き上げられた
日産の重役や上司があれこれ言っても、「理に適わないことは放っておけ」という姿勢を、村山工場は貫いていた。R30型スカイラインの量産試作のときも、リアフェンダーのひずみがどうしても消えなかったことがある。ジャパンまで採用していたサーフィンラインを廃し、フェンダーアーチで表情を付けるように変更したのだが、治具で修正しても消えなかったのだ。
そんなときも、工場が板厚を変えることで、シワが出ないように対応してくれた。さらにパネルに十文字を書き込むことで、完全にひずみが消える。本当に助かった。「よくやってくれた」と心から思ったものだ。スカイラインは、こうして工場とエンジニアが一体となり、試作から本格生産に至るまで磨き上げられていったクルマである。
ちなみに、かなり前になるが、スカイラインの部品を発注していたアメリカの部品工場を視察したことがある。働いている人たちの雰囲気が明るくて、驚いた。工場長が作業員に家族の病状を気遣う。その光景を見て、「村山と似ているな」と感じたのを覚えている。
日産との合併後から閉鎖の日まで、変わらなかったプリンス魂
合併後、われわれプリンス出身者は、日産自動車のなかで決して恵まれた立場ではなかった。だからこそ結束はより強くなる。村山工場も変わらずプリンス時代の信念を貫き、つねに背水の陣で開発に臨んでいた。その張り詰めた空気が好きで、陰ながら応援していたのである。
その村山工場の雰囲気に魅せられ、わたしは週に一度は通っていた。図面の修正を何度も行ない、直行直帰も珍しくない。世の流れとは違っていたかもしれないが、本家の日産にはない力が、確かに村山にはあった。
2001年、スカイラインが村山工場を離れ、そのあと工場も閉鎖された。あの場所には今も多くの思い出が詰まっている。マンホールの蓋ひとつ取っても愛着がある。そのいくつかは、長野県のプリンス&スカイラインミュージアムに展示されている。スカイラインと聞けば、わたしは村山工場を思い浮かべる。ここは、スカイラインの聖地だ。設計の現場だった荻窪工場以上に、思い出深い場所である。
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みんなのコメント
技術的な事は別にして、自分達で経営する能力に乏しく赤字垂れ流しの放漫経営と社内の派閥闘争の末に、プリンス自動車会長で筆頭株主のブリジストン創業者の石橋正二郎氏からも見限られメインバンクの住友銀行からも見捨てられた。
最初はトヨタに買収を持ちかけたが門前払いを喰らい、日産が引き受けた。
もしも日産が買収を断っていたら、ただ倒産するだけの会社だった。
通産省の特措法は殆ど関係無い。
ネームバリューではプリンスよりも格下だったマツダやスバル、ホンダが単独で生き残れて、何故プリンスだけが消えたか考えたらわかる事。