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池沢早人師が愛したクルマたち『サーキットの狼II』とその後【第10回:R32 GT-Rに教わったもの】

GT-Rがボクのスキルを向上してくれた

名作『サーキットの狼』の続編として1989年から週刊プレイボーイで連載された『モデナの剣』。そこには90年代を代表する数々のスーパースポーツが登場し、主人公である“剣・フェラーリ”を中心に痛快なストーリーが展開していく。作中に登場するクルマたちは当時の世相を反映したもので、フェラーリの348やF40、ポルシェ 911 カレラ4など欧州のスーパーカーと共に、ホンダ NSXなどの国産車も重要なキャラクターとして登場する。

池沢早人師が愛したクルマたち『サーキットの狼II』とその後【第10回:R32 GT-Rに教わったもの】

今回スポットを当てる「ニッサン・スカイラインGT-R」もその一台。伝説のネーミング“GT-R”を掲げて復活を遂げたR32 GT-Rは、日本が誇るスポーツカーとして数多くのカーマニアを魅了し、映画『ワイルドスピード』で使用されたことによって世界各国に人気は波及しているという。『モデナの剣』作者である池沢早人師先生は、R32 GT-Rの中でもNISMOが手掛けたモデルを愛車とした経験があり、ここではその思い出を存分に語っていただく。歴代のフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニを乗り継いだ池沢先生にとって、国産スポーツカーとはどんな存在だったのだろうか?

R32 GT-R NISMOの高い性能と操る喜び

週刊プレイボーイで『モデナの剣』を連載していた1990年、ボクを魅了したクルマがニッサン・スカイラインGT-Rだ。これまでの愛車遍歴を振り返ると、国産車を所有した数は圧倒的に少ない。フェラーリやランボルギーニ、ポルシェを乗り継いでいた理由のひとつは日本車に魅力的なモデルが無かったことが大きいと思う。前作『サーキットの狼』の頃はトヨタ 2000GTが唯一の国産スーパーカーといえる存在であり、その後の国産車に魅力を感じることはなかった。

ニッサン・スカイラインのハコスカ(PGC10型/KPGC10型)やケンメリ(KPGC110型)に用意されていたGT-Rは注目すべき存在ではあったものの、実際に乗ってみるとボクの琴線には響かなかった。当時はポルシェ 930ターボに乗っていたこともあり、GT-Rとはいえ「普通のクルマ」に見えたんだ。でも、伝説の復活として登場したR32 GT-Rは違っていた。大きなエアダクトを持つフロントバンパーや戦闘的なブリスターフェンダーに“ビビビ”と感じるものがあった。それにアテーサE-TSを使った4WDも当時のポルシェ 911 カレラ4(964型)とガチンコで渡りあえる大きな武器だったからね。

R32 GT-Rに興味を持ち始めた頃、ニッサンのワークスともいえるNISMOのネーミングが与えれたモデルが登場すると聞いてボクは迷わずオーダーを入れることに・・・。当時の自動車雑誌でも高い評価を得ていたR32 GT-Rを、さらにチューニングしたNISMO仕様というプレミアはボクの期待を大きく膨らませてくれた。でも、今までの経験則からしてこういう期待が泡に消えたことも少なくはなく、期待と同時に不安があったのも正直な話。

そして1990年、ボクの手元にやってきたガンメタリックのR32型GT-R NISMOは、期待を裏切ることはなかった。納車されたその日に首都高速を走りまわったんだけど、それはもう驚きと感動の連続だったね。「日本のクルマもここまできたか!」と感心した。標準型のGT-Rでも良くできたクルマだとは思っていたけど、日本のモータースポーツで頂点を極めたNISOMOの名は伊達じゃなかった。

公道では持て余すハイパフォーマンス

ポテンシャルの高いRB26型エンジンはツインターボで武装されるも、セラミック素材のタービンホイールは高負荷でも耐え得るようにメタル式に換装され、1400kgにまで軽量化されたボディは走りの良さに大きく貢献していたと思う。ハンドルの操舵に対してリニアに反応する車体、4WDがサポートするコーナリング、アクセルを踏み込めば爆発的に加速するシャープなエンジン・・・。「これだけの性能を発揮するには公道ではダメだ! そうだ、サーキットへ行こう!」となった。

当時はツーリングカーレースとしてグループAが大きな注目を集めていた時代で、フォード・シエラRS500が圧倒的な強さを誇っていた。日本車勢が全く歯の立たない時代だったんだけど、このGT-R NISMOの登場によってポディウムの勢力図は大きく変わっていく。それもそのはず、R32型のGT-R NISMOはグループAで勝つために開発されたホモロゲーションモデルだからね。生産台数は500台。そのうち60台はレース用として使われ、残り440台もあっというまに完売したと聞く。グループAの常勝マシンで公道を走るんだから遅いワケがないよね(笑)。

280psの最高出力はフェラーリやポルシェに対して比肩しうる数値ではないけど、R32型GT-Rは総合力の高さが突出していたと思う。直線が速くても曲がらないクルマ、コーナリングは楽しいけれどパワーに欠けるクルマが多い中で「曲がる、止まる、加速する」の3拍子が高い次元で揃っているクルマは他には無かったからね。正直、世界のスーパースポーツを相手に、これだけの戦闘力で対抗できた国産車は他には無かった。当時、ライバルとされていたホンダ NSXも良いクルマだったけど、戦闘力という部分ではGT-Rには及ばなかった。

ボクの中で大のお気に入りになったR32 GT-Rは、1983から84年のRJ(スバルエンジン)やRS(ロータリーエンジン)というオープンカーのミニGCマシンでのレース以降、再びサーキットレースへの挑戦となる。N1耐久が盛り上がっていたが、参加したのは近場の筑波サーキットで行われていたP3000というカテゴリー。そしてレースに参加するための改造をしていくんだけど、元に戻せるように配慮したからリヤシートなんかも残したままで軽量化はしなかった。マインズのコンピューターチューンを施し排気系は5GIGENに変更、ロールケージやハーネス、バケットシートを取り付けた。

GT-R NISMOとのコンビで連戦連勝

このクルマを使って1990年の後半から92年の中盤までレースを戦い、フル参戦した91年にはチャンピオンを獲得。今だから話せることだけど、P3000レースでチームの仲間たちと「連戦連勝じゃドラマがないよね」と盛り上がり「ポールポジションを獲得したけど、マイナートラブルが発生したってことでピットレーンからスタートしよう。最後尾からトップを取れたら盛り上がる!」と画策したんだ。予定通りフォーメーションラップのあとにピットインしたら、なんと!スタート一周目に多重クラッシュが発生してしまい、赤旗再スタートでポールポジションに戻されてしまった。計画は大失敗。神様っているのかいないのか(苦笑)。

その後、P3000レースの走りを見ていた千葉プリンスの社長がN1耐久のレギュラードライバーを二人続けて刺客として送り込んできたけど、2戦とも優勝したのはボクだった。そうしたらご褒美に富士スピードウェイの6時間耐久レースに第三ドライバーとして迎えられて乗れることになった。このとき用意されたGT-Rは凄く良くできたクルマで、純粋なレーシングカーとして造られたクルマだけにボクが乗っていた公道仕様に手を入れたGT-R NISMOよりも完成度は高かった。さすがはN1耐久用のセミワークスマシンと感動するくらい速かった。

GT-Rを使ったP3000レースでチャンピオンになったボクは、ポルシェのカレラカップに活躍の場を移してしまったんだけど、ボクの代打で自動車ジャーナリストの清水草一くんにGT-Rに乗ってもらったら見事優勝。当時はまだ彼が自動車ジャーナリストになる前(※編注:集英社の編集部員だった時代)で、今でもシミちゃんと顔を合わせると「先生のGT-Rは、ボクのレース人生唯一の優勝をもたらしてくれたクルマです」って感謝される。

GT-Rが大好きになっていたボクは、『モデナの剣』でGT-Rを登場させる話にもっていった。すると、元々P3000ではファルケンからタイヤの供給を受けてやっていたけど、今度はファルケンが『モデナの剣』とのコラボレーションスポンサーになってくれて、ついに憧れのファルケンカラーとなった。そしてレースにエントリーしない時は千葉プリンスの営業所にデモカーとして飾ってもらっていたんだ。

サーキットでの走り方を教えてくれたGT-R NISMO

ボクにとってR32型のGT-R NISMOは自分を成長させてくれた重要なクルマの一台だ。当時のレーシングカーとしては稀有な4WDはコーナーを曲がるために独自のラインが必要になり、通常のアウト・イン・アウトではタイムを出すことができない。タイムを稼ぐにはストレートのセンターから進入してコーナーの奥まで突っ込み、V字ラインで曲がることが重要になるんだけど、この曲がり方はGT-Rで編み出したボク独自のコーナリング。まあ、きっかけはGT-Rのブレーキが甘かったからそうなったんだけどね。

でも、レーサーの太田哲也さんが「池沢さんのコーナリングは欧州のレーサーみたいですね」と言われてビックリ。話を聞くと、欧州のレーサーはブレーキを遅らせてコーナーに進入し、一気にクルマの向きを変えて立ち上がり重視のラインを通るのが主流になっていたらしい。これも4WDでありながらFR的にリヤを振れるR32 GT-Rならではの乗り方なんだけど、GT-Rを乗りこなすことでボクのドライビングスキルは大きく向上したんだと思う。

GT-Rのデビューから乗っているうちに4秒もタイムアップしたのは、試行錯誤しながらドライブしたGT-Rの教えが大きく影響していることは間違いない。GT-Rに鍛えられたからこそ、1992年に始まるポルシェ・カレラカップに乗った時に活かされたんだと思う。ボクにとってR32 GT-Rは走りの教科書であり、走りの基本をマンツーマンで教えてくれた素晴らしき“友”なんだ。

NISSAN SKYLINE GT-R NISMO

ニッサン・スカイライン GT-R NISMO

GENROQ Web解説:自らの伝説を復活させたGT-R

日本を代表するスポーツカーとして人気の高いGT-Rの歴史は、ニッサンの前身であったプリンス時代へと遡る。プリンス・スカイライン 2000GT-B(S54B-II型)の後継モデルとして1968年に開催された第15回東京モーターショーへと出展された「スカイライン GTレーシング仕様」をルーツとする。

このモデルは標準型のGC10型のハコスカと呼ばれる4ドアセダンをベースにR380に使用されたGR8型エンジンをベースに開発された直列6気筒DOHCエンジン(S20型)を押し込んだもので、その翌年、プロトタイプとして出展されたGTレーシングが「GT-R(PGC10型)」として発売された。

初代スカイラインGT-Rはツーリングカーレースで活躍したプリンス 2000GT-BのDNAを受け継ぎ、モータースポーツの世界で大成功を収める。その後、4代目にモデルチェンジを果たしたKPGC110型スカイライン、通称“ケンメリ”にもGT-Rが用意されるもサーキットで活躍することはなかった。生産台数も極端に少なく僅か197台のみとなり、幻のGT-Rとしてカーマニアたちの間で伝説を築くことになる。

レースで連戦連勝を果たしたKPGC10型GT-R、希少性の高さで幻の名車となったKPGC110型GT-Rは、現在も驚くようなプレミアム価格で取引されている。その理由のひとつとして5世代目モデルから“GT-R”のエンブレムを使わなくなったことも影響している。

16年振りに栄光の車名“GT-R”が復活

そして1989年、8世代目となったスカイラインに“GT-R”が復活。そのニュースはカーマニアたちを驚かせ、16年振りのGT-R復活で狂喜乱舞させることになる。復活を遂げたGT-Rは当時、ニッサンで行われていた“901運動”の集大成であり、技術力の全てを注ぎこんだハイスペックが与えられた。

4WD方式を採用した駆動方式にはトルクスプリット式のアテーサE-TSが使用され、搭載するパワーユニットは専用設計のRB26DETT型となり、2.6リッターの排気量を持つ直列6気筒DOHCツインターボエンジンは280psの最高出力を発揮する。この2.6リッターの排気量は当時のグループAレギュレーションに則したもので、GT-Rがレースを念頭に於いて開発されていることが分かる。

1990年には全日本ツーリングカー選手権(グループA)に参戦するためのホモロゲーションモデルとして、実質的にニッサンのワークスであるNISMOから500台の限定モデルを市販車として発売。「GT-R NISMO」と呼ばれたマシンは、先代のR31型スカイラインGT-Sに代わり、モータースポーツシーンで大活躍を果たすこととなる。R32型GT-R NISMOが参戦した1990年からグループAカテゴリーが終了する1993年まで、29連勝という前人未到の記録を打ち立てた。

グループAのホモロゲーションモデル、GT-R NISMO

レースでの使用を考えたNISMOは、耐久性を向上させるためセラミックタービンからメタルタービンへと換装され、エキゾーストマニホールドも専用設計されていた。エクステリアでは冷却効果を高めるフードトップモール、大型の開口部(ニスモダクト)を持つフロントバンパー、整流効果を発揮するサイドシルプロテクター、リヤスポイラーが与えられ、標準型GT-Rと一線を画した。

ホモロゲーションモデルとして公道を走ることを許されたR32型「GT-R NISMO」は、日本を代表するスポーツカーとして歴史に刻まれた素晴らしき名車である。

REPORT/並木政孝(Masataka NAMIKI)

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