「大和」と一緒に戦った駆逐艦「涼月」
戦艦「大和」が沖縄特攻作戦を行い、坊ノ岬沖で沈没してから、今年で80年。多くの艦艇が大和」と運命を共にしましたが、それでも奇跡的に生き残った艦がありました。その1隻が、駆逐艦「涼月」です。この「涼月」は、戦場で3度も艦首を吹き飛ばされ、沈没寸前まで大破しながらも帰還し、同型艦の中で最長寿艦となった奇跡の船でもあります。
日本海軍一等駆逐艦「涼月」は、「秋月」型駆逐艦の3番艦として1942年12月29日に竣工しました。全長は約134m、公試排水量は3470トン と、大きさとしては現在の海上自衛隊の護衛艦(FFM)もがみ型と同じくらいの大きさです。乗員は通常で263名、戦時増員時には倍の人数が乗船したといいます。1942年末に竣工した「涼月」は、翌年1月に第十戦隊第61駆逐隊に編入され、輸送作戦や護衛任務に従事していました。
同艦は同じく「大和」特攻に従った「雪風」とともに、幾多の敵の攻撃をしのいで終戦まで生き残った“幸運”な艦ではありますが、ほぼ無傷だった「雪風」とは違い、傷だらけになったエピソードばかりです。
艦の原型がないほどズタズタに破壊される
「涼月」が最初の大きな悲劇に見舞われたのは、1944年の1月のこと。同艦は、特設巡洋艦「赤城丸」の護衛をしてウェーク島(太平洋中西部、マーシャル諸島北方約1000キロメートルに位置する環礁。1945年にアメリカ領に)へ向かう途中でした。
ここで「涼月」はアメリカ海軍の潜水艦「スタージョン」に発見され、「スタージョン」が発射した4本の魚雷のうち、1本を弾薬庫の右舷に、もう1本を艦尾に受けてしまいます。「涼月」の損傷は深刻で、弾薬庫が誘爆し艦首が吹き飛ばされてしまいました。
さらにこのときの同艦は、艦尾に命中した魚雷により艦尾も引きちぎられてしまいます。この損傷により4番砲塔はかろうじて残りますが、動力関係も含め、それより後ろの構造物はすべて使い物にならなくなります。
艦そのものの損傷に加え、人的損失も深刻でした。
乗員は艦長の瀬尾昇中佐以下、指揮するべき将校はほぼ戦死。合計で100名以上の命が失われました。ただ、そんな状況でも奇跡的に沈みはせず、海に浮かぶ小さな漂流船のような状態となりつつも耐え、僚艦「初月」に曳航されて、何とか当時の海軍における拠点のひとつであった広島・呉に帰投しました。
呉にたどり着いた「涼月」はそこで半年以上にわたり修理が行われ、新たに生まれ変わることになりました。
ボロボロになってしまった艦橋や艦首、艦尾はすべて新しいものに取り換えられ、まったく別の艦のような外観に生まれ変わりました。しかし、この艦首は早くもこの年10月の最初の出撃で、またも吹き飛ばされて帰ってくる羽目に。今度もアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を食らったのです。とはいうものの、このときの魚雷攻撃は大きな爆発を起こすことはなく、乗組員2名を失いましたが、自力帰還することができました。
この期間後の修理では、武装的にも大きな改変が加えられ、対空兵装が強化されて、この戦争中に急速に脅威度が増した航空機への対策が計られました。この装備はその後、日本海軍に残った数少ない戦艦である「大和」を守るために使われることとなります。
「大和」と共に特攻…その後は?
第二次世界大戦の終結が迫った1945年、日本海軍は前年にレイテ沖海戦で敗れ、すでに大規模な海戦を行う力は残されてはいませんでした。
そういった状況で始まったのが沖縄戦で、艦艇での反撃として発案されたのが「天一号作戦」でした。内容は単純で、戦艦「大和」以下第一遊撃部隊の艦艇による沖縄への“殴り込み”作戦となります。とはいえ、沖縄にいくまでには、米・英の艦艇や艦載機がひしめいており、これらにどう対処するかといった具体的なプランはありませんでした。
「天一号作戦」は航空機による特攻作戦である「菊水作戦」と呼応する形で行われたため、明確に言わないまでも、実質的に艦艇による“特攻作戦”といえるものでした。
そして「涼月」も、1945年4月7日に行われた、この帰るアテのない作戦に参加することになりました。
9日、「涼月」が戦艦「大和」の左後方に位置し警戒航行を行っていた際、アメリカ海軍艦載機からの攻撃を受けます。「坊ノ岬沖海戦」の開始です。日本側の船は、次々とアメリカ軍の攻撃により沈没していきます。「涼月」も艦首甲板や右舷側外板などに被弾し、さらに命中弾により火災も発生します。これにより通信装置もなくなり、コンパスも破損・さらに砲塔は破壊され、弾薬庫は浸水、電源消失により消火活動もままならなかったといいます。
ただ、奇跡的に一部の動力機関は動いていたため、何とか旋回して回避運動をつづけました。そうこうしているうちに、舵を失った戦艦「大和」が左舷に大きく回頭、あやうく激突しそうになったところを慌てて「涼月」が後進回避する、というような事態も起こっていたようです。
この後、戦闘続行不可能と判断した「涼月」の艦長は「大和」が沈没するのと同じタイミングで、単艦での帰投を開始しました。ただ、通信装置が壊れてしまっていたために、「作戦中止命令」は受信できませんでした。
この時の「涼月」の姿は、被弾により艦首が沈下し、前進するとそのまま海に潜っていってしまいそうなほどボロボロでした。というわけで、仕方なく機関長は後進を開始。バックで9ノットのスピードを保ったまま、帰ろうとしたのです。
海図は焼失、ジャイロコンパスも破損し、通信もできない、前に進むこともままならな い同艦 は、よろよろと母港を目指して進みました。そのようななかアメリカ軍は同艦に、雷撃機「アベンジャー」から魚雷を発射。しかし、これは奇跡的に命中することはありませんでした。
翌4月8日、「涼月」は佐世保へと帰投しました。後ろ向きのまま進み、ボロボロの姿で港に入ってきた「涼月」に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎したといいます。そして佐世保港入港時に、後進から前進に切り替えた瞬間、浸水が進行します。船員たちは慌ててタグボートに乗り換えたところで「涼月」は静かに着座してしまいました。
その後再び復帰に向け修理が行われましたが間に合うことはなく、「涼月」はそのまま終戦を迎え、1945年11月20日に除籍となりました。
3度も艦首を吹き飛ばされるほどの大きな被害にあいながらも、奇跡的に生還し「不沈艦」とも呼ばれる「涼月」は、除籍後どうなったのでしょう。
実は、艦上構造物を取り除かれた船体はその後、駆逐艦「冬月」「柳」とともに、北九州にある若松港の防波堤として再利用されています。
「涼月」「冬月」は一緒に「大和」最期の作戦に参加した艦ということで、この3隻の元乗組員の方たちは、「大和」の戦没日に、合同で慰霊式を行うようになりました。その行事は、乗組員が高齢になったことで開催が困難となり終了する2016年4月7日まで続きます。
なお地元で「軍艦防波堤」と呼ばれるこの防波堤は現在でも残っており、見学も可能です。ただし2025年現在では、船体は完全に埋め立てられてしまっており、「柳」の一部を見ることができるのみになっています。その「柳」も腐食が進んでおり、市民団体の「軍艦防波堤を語る会」を中心とした保存運動も行われています。
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みんなのコメント
泣けてきます
鴫之沢砲術長が艦内を調べていると、1番砲塔の弾薬通路の左舷側、水線下にある1部屋に下士官、兵長、兵の3人が倒れていたの発見する。前部のその部屋は丸太で隔壁を支え、カスガイを打ち、完全に浸水を止めていた。涼月は前に10度傾いていたので、それ以上だと沈没していた可能性があった。鴫之沢砲術長はその場で電気に打たれたように密閉された部屋で、窒息死したのであろう3人に頭を下げたと言う。
まだ、昭和の時代、一番最後の初年兵が40代で日本経済を支えていた頃です・・・「負けじ魂の駆逐艦乗り」と称えられた日本の水雷戦隊の最後にふさわしい話で、少年向けの秋田書店『壮烈、水雷戦隊』は終わっていました。