「創業地消滅」への転換点
経営難が続く日産自動車は、2027年度までに世界で7工場を削減する計画を進めている。国内では、主力の追浜工場(神奈川県横須賀市)と子会社・日産車体の湘南工場(同県平塚市)の閉鎖を検討中とされる。国内主力工場の閉鎖は2001(平成13)年の村山工場以来であり、創業の地にある工場が消えるという意味でも象徴的な動きだ。
【画像】「えぇぇぇ!」 これが35年前の「日産村山工場」です! 画像で見る(計13枚)
こうした都市近郊型工場の閉鎖は、日産に限った現象ではない。自動車業界全体で同様の動きが続いており、構造的な問題が背景にある。実際、村山工場は、現在の再編トレンドを先取りする象徴的事例であり、多くの示唆を与えてきた。
本稿では、同工場撤退の背景にあった経営判断や産業構造を検証する。現在進行中の工場再編、そして日本の製造業の今後を見通すための手がかりを探る。
村山工場の設立と日本の高度成長
村山工場は、もともとプリンス自動車工業の乗用車生産工場として1962(昭和37)年に操業を開始した。初代グロリアをはじめ、プリンス・ロイヤルやスカイラインの生産拠点であった。
1966年のプリンス自動車工業と日産自動車の合併にともない、日産の主要な生産拠点となる。合併後は「日産グロリア」「日産スカイライン」などの生産が継続され、さらにダットサン・サニートラックの生産も行われた。
その後、1968年にはローレルの生産を開始。1975年にはフォークリフトの生産も始まり、多角的な生産体制を強化した。1982年にはマーチの生産を開始し、1986年にはレパード(F31型)が新たに加わった。1988年にはセフィーロの生産も始まっている。
工場は東京都武蔵村山市と立川市にまたがる約139万平方メートル(東京ドーム30個分)の広大な敷地に立地し、1964年から1966年にかけては、村山工場の労働者を支えるため都営村山団地が建設された。さらに、敷地内には約4.25kmのテストコースが設けられ、スカイラインなどの走行試験が実施された。
これらの取り組みにより、村山工場はプリンス自動車工業時代から日産自動車時代にかけて、首都圏における重要な自動車生産拠点としての地位を確立した。
200億円“幽霊工場”の代償
しかし、村山工場は1990年代に入ると収益性が悪化した。背景にはバブル期の過剰投資がある。
1989(平成元)年度の設備投資額は約1700億円だったが、1990年度に3200億円、1991年度も2600億円と急増した。とりわけ村山工場に建設された最新塗装ラインが象徴的だ。総工費200億円を投じて完成したが、本格稼働せず「幽霊工場」とやゆされた。
当時の状況は、『朝日新聞』1992年9月5日付朝刊の記事「肥大 200億円の幽霊工場」で詳述されている。
「「あんな幽霊工場をつくらなければよかったのに」と、村山工場の組合幹部はぼやく。昨年末に完成したものの、動いていない塗装工場のことだ。その投資額は、会社が見込む最終損益の赤字とほぼ同じ200億円なのだ。日産の設備投資は、1989年度に約1700億円だったのが、90年度は約3200億円、91年度も約2600億円と急増した。そこへ見込み違いの急激な売れ行き悪化。減価償却費の2、3倍に達する投資は、設備過剰となって経営を圧迫し始めた。「実は、販売に陰りが出始めた90年末に、このまま高水準の投資を続けては危ない、と社内に警告を発した。しかし、流れを止めることはできなかった」と財務担当の村松敦副社長は悔やむ」
この時期、バブル景気崩壊の影響で自動車業界全体が低迷していた。とりわけ日産の状況は著しく悪化していた。1993年2月には座間工場を閉鎖し、国内の五つの工場で一時帰休を実施する事態に追い込まれた。
『朝日新聞』1993年12月12日付朝刊の「どうする自動車不況 辻義文・日産自動車社長」インタビューで、当時の辻義文社長は村山工場の厳しい状況について次のように語っている。
「――新型スカイラインを生産している村山工場でも一時帰休するという事態は重大ではないですか。「これまでは新車を発表すると、6カ月間は月販売目標の3割から4割増しの台数が売れたが、この期間が短くなっている。今年1月に発表したローレルでは新車効果は2カ月しかもたなかった。長年、スカイラインを乗り継いできている人も、もう1年このまま乗ろうか、と買い控えている」 ――トヨタと比べると、日産は従業員一人あたりの売上高は6割です。「だからといって別の工場を閉鎖したり人員をもっと削減するつもりはない。今以上に人員を削減しようと採用を抑えたりすれば、今度は将来の人員構成にひずみをもたらす」 ――有利子負債は1兆1490億円に達し、利払いだけでも大変でしょう。「徐々にではあるが、減らしている。向こう3年で9千億円程度にまで減らす計画を実施している」」
都市立地が招く高固定費
村山工場は閉鎖前から稼働率の維持が難しくなっていた。稼働率とは、生産能力に対して実際に稼働している割合を示す指標である。具体的には、工場がフル稼働した場合の生産量を100%とし、実際の稼働状況を数値化する。
例えば、1日に最大100台の車を生産できる工場が、実際に80台の生産にとどまれば、稼働率は80%となる。稼働率が高いほど設備や人員の活用が効率的である。一方、稼働率が低い場合は、設備の遊休や固定費の負担が重くなり、経営効率が悪化するリスクが高まる。
自動車業界では市場の需要変動や生産計画の影響で稼働率が変動しやすい。特に景気後退や需要低迷期には、稼働率の低下が深刻な問題となる。
村山工場では一時帰休や勤務日数削減などの生産調整策が断続的に行われていた。これは単なる景気の波に対応するものではない。工場の生産体制自体が時代の需要構造に適応できなくなっていた証左である。
トヨタとの生産性格差や巨額の利払い負担に加え、都市立地特有の高い固定費も村山工場の重荷だった。結果として、同工場は日産の競争力を支えるどころか、経営の足かせとなっていたのである。
自動車産業の再編
村山工場の閉鎖は、カルロス・ゴーンの強権的改革ばかりが注目されがちだ。しかし、この問題は1990年代から進行していた自動車産業全体の構造変化の一環で捉える必要がある。
冷戦終結後のグローバル化により、自動車メーカーは世界規模で最適な立地を追求するようになった。従来の「国内一貫生産」から
「国際分業」
へと生産体制が変わり、各地域の比較優位(労働コスト、物流コスト、政策支援など)に基づく拠点配置が重視されるようになった。
この変化は国内でも顕著である。1990年代以降、九州には自動車各社が相次いで進出し、関東・中京に次ぐ第三の自動車産業集積地となった。
ただし、九州の役割は完成車の組み立てに特化している。研究開発や高付加価値部品の調達は依然として関東・中京圏に集中していた。
この「機能分散・役割特化」の流れのなかで、村山工場のような都市近郊の一貫生産型工場は、高い固定費に見合う競争優位を失いつつあった。地価や人件費の安い地方や海外拠点で同等の品質の製品が生産できるなら、コストの高い都市部に工場を維持する必要はなくなった。
つまり、村山工場の閉鎖は、20世紀型の都市近郊工場が21世紀型のグローバルサプライチェーンに淘汰されていく過程を象徴する出来事であった。
経営体制の大変化
1999(平成11)年3月、経営危機に陥った日産はフランスのルノーと資本提携を結んだ。これを機にルノーからカルロス・ゴーンが最高執行責任者(COO)として派遣され、「日産リバイバルプラン(NRP)」を策定した。このプランでは、
・過剰な生産能力の削減
・資産圧縮
を最重要課題と位置づけた。
当時の日産の経営状況は深刻だった。1999年時点の国内車両生産能力は年間240万台あったが、実際の生産は128万台にとどまり、稼働率は53%だった。NRPでは、2002年までに稼働率を82%に引き上げる目標を掲げた。具体的には以下の方針を打ち出した。
・村山工場、日産車体京都工場、愛知機械港工場など国内5工場の閉鎖
・従業員の14%にあたる2万1000人の削減(うち製造部門は4000人)
・取引部品メーカーを1145社から600社以下に半減
これらに加え、多数の施策を実施し、コストを1兆円削減。2000年度の黒字化と、2002年度には有利子負債(利息の支払い義務が伴う借入金や債務)を1999年度比で50%削減する計画も示された。
NRPは、日産が従来の日本的経営を見直し、グローバル競争に勝つため、効率性を最優先する姿勢の表れだった。ゴーン以前から生産体制の抜本的な改革は必要だという認識は社内にもあった。しかし、
・社員の居住地
・地元経済
との関係から工場の移転・集約は簡単ではなかった。
こうした事情が重なり、日産では社内製造コストの約50%が固定費となる、極めて非効率な体制が形成されていた。高度成長期には有効だった都市型工場や企業城下町のモデルは、1990年代にはコスト負担の大きい時代遅れの仕組みとなっていたのである。
したがって、企業存続を第一とすれば、村山工場の閉鎖による再編は避けられない決断だったといえる。
株主資本主義が壊した城下町幻想
村山工場の閉鎖は単独の出来事ではない。1990年代から2000年代初頭にかけて、日本の製造業全体が都市型工場の構造的な限界に直面した。実際、いすゞ自動車が川崎工場を閉鎖するなど、多くの企業で生産体制の抜本的な改革が始まっている。これらに共通する課題は、都市立地特有の高コスト構造からの脱却である。
特に自動車産業においては、都市型工場が以下の問題を抱えていた。
・地価や人件費の高騰による固定費の増加
・従来の4年サイクルのモデルチェンジによる設備投資回収期間の短縮
・グローバル分業体制における生産調整の難しさ
かつての都市型工場は「企業城下町モデル」として成立していた。前述のとおり、村山工場周辺では、都営村山団地が整備され、工場労働者とその家族約1万人が居住していた。
「工場、住宅、商業施設が一体となった地域社会」
が形成されていたのである。
しかし、このモデルは日本経済の高度成長と終身雇用制度を前提にしていたため、グローバル競争のなかで維持は困難となった。企業の意思決定が「地域との共存共栄」から
「株主価値の最大化・グローバル最適化」
へと転換したことが背景にある。
跡地の約3分の1は、2006年にダイヤモンドシティ・ミューとして開業したイオンモールむさし村山など、商業施設や医療施設へと再開発された。一方で、残る敷地は宗教法人・真如苑に譲渡され、2020年代に入っても一部は未利用のままとなっている。現在は、サッカーグラウンドの整備や市役所の移転構想も進行中だ。
都市と産業の関係は、構造的な転換を迎えている。都市部における製造業の役割は、大量生産から研究開発や試作、高付加価値の生産へと限定されつつある。かつての企業城下町モデルが再び機能する可能性は低く、都市型工場を再評価するのは極めて難しい局面にある。
都市と製造業のゆくえ
村山工場の歴史から以下の教訓が得られる。
・製造業の立地優位性は永続しない
・企業城下町モデルはグローバル競争下では機能しない
・過去の成功体験に基づく投資判断は致命的になりうる
現在進行中の追浜工場の閉鎖も、この延長線上にある。大企業の強みは、失敗を重ねても豊富な資産によって倒産ではなく変貌を選べる点にある。
村山工場の跡地はイオンモールへと再開発され、地域は新たな発展の段階に入った。工場の撤退は終焉ではなく、再編の起点と捉えるべきだ。武蔵村山市では現在、多摩都市モノレールの延伸が予定されている。地域は
「日産が去った町」
というイメージからの脱却を図っている。
村山工場の経験は、産業が時代に応じて再配置・再定義される過程に希望を与える。この事例は、今後の都市政策や産業政策にとって重要な示唆を含んでいる。(山本肇(乗り物ライター))
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みんなのコメント
こうなるわな
しかし日産関連の記事ばっかりで
日産からの正式なアナウンスはちっともない。
株主総会前には何かしらあるんかな。
やっぱり日産はスピード感がない。