2020年2月14日、英国の高級車メーカー、ベントレーは旗艦「ミュルザンヌ」の生産をこの春、終了すると発表した。2009年に「アルナージ」の後継として投入されたミュルザンヌは、W12気筒と4WDを組みわせた超高性能車の「コンチネンタル」系とは異なり、ボディ パネルから英国クルーにあるベントレーの自社工場でトンテンカンとハンドメイドする、古きよき大英帝国の遺産ともいうべき存在だった。1台製作するのに400時間、内装を仕上げるのに150時間を費やすという伝統工芸品的超高級車である。
その生産終了はすなわち、1959年、ベントレーでは「S2」、ロールス・ロイスでは「シルヴァークラウドII」に搭載されてデビューした90度V8 OHVユニットも姿を消すことを意味する。後継に指名されたのは新型「フライング スパー」で、ひとつの時代が終わり、新しい時代が始まったのだ。
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先だって1時間ほどの短い時間ではあったけれど、広報車のミュルザンヌ スピードのステアリングを握る機会を得た。2009年の発表時と、2016年のフェイスリフト時、両方の国際試乗会にたまさか参加した筆者としては、本稿をもって惜別の辞としたい。
ミュルザンヌくん。“くん”と呼ぶほど親しくはないけれど、ミュルザンヌさん、と呼ぶのも他人行儀だ、いっそ呼び捨てにしよう。ミュルザンヌ。これは僕の、きみへの愛の言葉だ。
きみは長く生きすぎてしまったのだ、と、僕は思う。きみの6.75リッターV型8気筒OHVガソリンツインターボは、大幅に改良の手がくわえられ、鍛造クランクシャフト、ピストン、コネクティング・ロッド等の内部部品は、より優れたレスポンスを得るべく、より軽量でより頑丈なものへと再設計され、新たに気筒休止システムが採用されていた。絶望的な低燃費に対処するためだった。
この古い古いV型8気筒には、フォルクスワーゲン傘下に入ったきみの、クルーの正統的継承者としての象徴というだけではなく、実質的な意味もあった。512ps/4200rpmという最高出力もさることながら、1020Nmというディーゼル エンジンもかくやの最大トルクを1750~3250rpmという低回転域で生み出せたのだから。当然、ディーゼルよりも静かで平穏に。
クルーでごく少量がハンド メイドされるきみは、デビューから7年を経た2016年にフェイスリフトを受けて、現在のフロント エンドに変更された。僕はその、横方向に80mm広げられ、ステンレス製の縦ルーバーになった新しいグリルが、1930年代の「8リッター」や、50年代の「Rタイプ コンチネンタル」等から着想を得ていることを知っている。どちらかといえば、僕はフェイスリフト前のほうが好きだったけれど、いまとなってはそうたいした違いはないようにも思う。きみはいつだって、ベントレーらしくあることを望まれていたし、きみ自身もそう望んでいただろう。
巨体に似合わぬエレガントな所作でもって、今回都内で乗ったミュルザンヌ、きみは高性能版のスピードだった。スピードはいわば双子の妹のような存在で、ほとんどおなじ姿かたちなのに、妹は身体機能を高めていたのだった。
スタンダードのV型8気筒ガソリンツインターボが512ps/4200rpmと1020Nm/1750~3250rpmを発生するのに対し、圧縮比を7.8から8.9に高めて、それぞれ537ps /4000rpmと1100rpm/1750rpmにまでアップ。あわせて、足まわりもスポーティなセッティングに変更している。最高速は296km/hから305km/hへ、0-100km/h加速は5.3秒から4.9秒に縮まっているそうだ。
僕の記憶のなかのスタンダード モデルと較べると、ミュルザンヌ スピードのきみは、エンジンをスタートさせた瞬間から、V8の鼓動が大きくなったように感じられた。高められた心肺機能の違いが隠せないほどに、高性能エンジン特有の唸り声を発している。僕にはそう感じられた。
僕は、きみの全長×全幅×全高=5575×1925×1530mm、ホイールベース3270mmという巨体に最初はちょっと戸惑ったことを告白しなければならない。
だって、ザ キャピトルホテル東急の地下駐車場からの地上出口へと続く通路は、ちょっと狭くてぐるぐるぐるぐるまわるものだから、ぶつけはせぬかと案じてしまった。
戸惑いながら地上に出て、首都高速に霞ヶ関から上がると、そこはきみの舞台だった。巨体に似合わぬエレガントな所作に僕は魅了された。体重が2770kgもあるというのに、きみのレスポンスは素直で、全長5.5m、体重3トン近い巨大な鯨を操っている感がまったくなかった。きみは呆気ないほどカジキマグロのように滑らかに首都高速という回遊路のなかを泳ぎ、僕は自分が白鯨に乗っていることを忘れた。
スタンダードの20インチに対して、21インチのホイール&タイヤを履いていることも、まったく気にならなかった。ドライブ モードを「B」にしておけば、路面の凸凹に対し、エア サスペンションがときにゆったり、鷹揚にボディをわずかに揺らせはするものの、98%ぐらいはフラットさを保ち、徹底的に古典的なスムーズネスの見本たらむとする乗り心地を披露する。
ただただ、むおおおおおおおおっという、地の底から湧き出るような超高性能エンジン特有の息吹というか鼓動はどこかでつねに感じる。
居心地のいい空間内装がキラキラしすぎているきらいは否めない。いささか成金趣味ではあるまいか。でも、こう考えたらどうだろう。試乗車の白と黒の2トーンの内装は、黒髪の乙女が純白のウェディング・ドレスをまとい、純銀のアクセサリーで飾っているのだ、と。
ミュルザンヌ スピード。きみはお嫁に行くんだね。
ベントレーは2019年、全世界で1万1000台を販売し、7年連続で1万台超えを記録した。日本でも522台が販売され、前年比19%増を達成、これは過去最高の数字だ。世界でも日本でも、もっとも売れたのはコンチネンタルGT系で、どちらも半分近くを占めている。
好調な業績を背景に、ベントレーは2023年までに全モデルにPHEV(プラグ イン ハイブリッド)を、2025年までにベントレー初のBEV(バッテリーEV)を導入するという。
試乗会のベースになったザ キャピトルホテル東急の前身のキャピトル東急、いや旧ヒルトン東京のカフェ、「オリガミ」は1960年代、徳大寺有恒さん、式場壮吉さん、生沢徹さんたちの溜まり場だった。私が式場さんに初めてお会いした1990年代のはじめ頃、式場さんはブリティッシュ グリーンのベントレー「ミュルザンヌ ターボ」(もしくはターボRだったかもしれない)に乗っておられたと記憶する。
昔のキャピトル東急はすでになく、ベントレー ミュルザンヌも受注を終えた。けれど、私は思うのだけれど、職人仕事はなくならない。
ミュルザンヌ、きみに魂が宿っているのは、祈りにも似た400時間もの手作業の賜物で、そんなきみならではの居心地のいい空間は、手作業でなければつくり出せないから。
車両価格は4022万1000円。製作時間から考えると、1時間あたり10万円。なあんだ、安いじゃん。と、言ってみたいものである。
文・今尾直樹 写真・安井宏充(Weekend.)
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