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この1台がフォードを救った 奇跡の『1949年モデル』 開発経緯と歴史

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この1台がフォードを救った 奇跡の『1949年モデル』 開発経緯と歴史

知る人ぞ知る米国の名車

1台のクルマの発売が、会社の運命を救うことがある。初代マスタングはフォードの代表作として知られているが、1949年モデルのことはあまり知られていない。しかし、実は、1949年モデルこそフォードを救ったスーパースターなのだ。

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そこで今回は、1949年モデルが短期間で開発された経緯と理由に焦点を当てながら、フォードにどのような影響を与えたのかを見ていきたい。このモデルがなければ、ブロンコ、マスタング、そしてF-150も存在しなかっただろう。フォードの愛好家なら知っておきたい重要な歴史だ。

荒波を越えて

フォードの創業者であるヘンリー・フォード氏(写真右)の唯一の息子、エドセル・フォード氏(同左)は1919年に同社の社長に就任した。ただ、当時のことを記す資料の多くは、父親が裏で重要な決定を下していたと指摘している。1940年代初頭、エドセル氏はチーフデザイナーであるE.T.グレゴリー氏(通称:ボブ)と協力して、1943年モデルの開発に取り組んだ。

しかし、このモデルがショールームに並ぶことはなかった。米国が第二次世界大戦に参戦すると、フォードは軍需産業に全力を注ぐようになり、さらに1943年には、エドセル・フォード氏も胃がんにより49歳という若さで亡くなった。父親が再び経営を引き継いだものの、1930年代に度重なる脳卒中を患っていたこともあり、健康状態は悪化していた。

フォードと「神童」たち

エドセル氏の長男であるヘンリー・フォード2世(写真中央)は、1945年9月21日にフォード社の社長に就任した。当時彼は28歳で、自分には会社を再建するための経験が不足していることを自覚していた。彼はまずフォードの構造改革に着手し、ゼネラルモーターズ(GM)から数名の幹部(アーネスト・ブリーチ氏を含む)を引き抜いた。

また、第二次世界大戦の退役軍人で、陸軍航空隊の統計管理部門に所属していた「ウィズ・キッズ(神童)」と呼ばれる人材も採用した。米国を勝利に導いた経験を活かすことができれば、民生品生産に向けて転換を進める中で健全性を維持できるかもしれないと考えたからだ。

戦争から平和へ

フォードは、他の競合他社同様、平和が戻ると戦前のモデルを改良して発売することになった。しかし、1943年に発売予定だったモデルをショールームに並べるには遅すぎたため、新型車の開発プロジェクトに着手する。経営陣は、小型のエントリーモデルと、その上位モデルとなる大型車を構想した。

開発は1946年に加速し、この2車種を1948年モデルとして発売し、宿敵シボレーに十分な差をつけることを目指した。ヘンリー・フォード2世がGMから採用した人材が、同社の製品ロードマップに関する貴重な洞察を持っていたことも幸いした。

旧型の改良を続けるも苦戦

その間、フォードは戦前のモデルにいくつかの外観上の改良を加え、販売し続けた。1946年時点のラインナップには、6気筒または8気筒エンジンとさまざまなボディスタイルから選べるデラックス・シリーズとスーパーデラックス・シリーズがあったものの、販売は低調で、財政は傾いていった。

フルサイズ車が廃止に……

新型の1948年モデルは、1947年の発売を目指して開発が順調に進んでいたが、ゼネラルモーターズから引き抜かれた幹部の1人、アーネスト・ブリーチ氏がフルサイズ車の発売延期を決定した。彼は、このような大きくて重いクルマは競争力がないだろうと懸念したのだ。

ただ、開発はすでにかなりの段階まで進んでいたため、いまさら中止するわけにもいかなかった。そこで、このプロジェクトはフォードのマーキュリー部門に引き継がれ、1949年に『エイト(Eight)』として発売されることになった。

……そして小型車もキャンセルに

小型車の開発も中止となった。コンシューマー・ガイド誌によると、この小型車のコストは、大型車よりもわずか17%しか安くないと判断されたのだという。当時の案としては、競合車よりも上位に位置付け、価格を低く設定して赤字覚悟で販売する、または開発を遅らせてコストを削減する、といったものがあった。

しかし、結果的には、小型車のデザインをフォードのフランス部門に委ね、『ヴェデット(Vedette)』として一から開発し直すことになった。この時点で、1948年モデルが間に合わないことは誰の目にも明らかであった。

よーい、描き方はじめ!

フォードは開発を加速するため、社内でデザインコンペを開催した。デザイン部門を率いていたボブ・グレゴリー氏(写真)、ジョー・オロス氏、エルウッド・エンゲル氏、ジョージ・ウォーカー氏、リチャード・カレアル氏、ボブ・バーク氏、ボブ・コト氏など、多くのデザイナーが参加し、さまざまなデザイン案を披露した。ここで誰が何を担当したか、そして優勝作品を誰が作ったかについては、現在も激しい議論の的となっている。

グレゴリー vs ウォーカー

コンテストに参加を希望するデザイナーは、90日以内に粘土製の1/4スケールモデルを提出する必要があった。審査員たちは1946年8月、カレアル氏の提案(ウォーカー氏の名義で提出)を採用した。この意外な結果に、デザイン部門トップのグレゴリー氏は激怒する。彼をなだめるため、フォードは第2回コンテストを開催し、今度は実物大のクレイモデルを要求した。グレゴリー氏とウォーカー氏だけが参加を招待されたが、制作作業はそれぞれ複数人で行われた。粘土で実物大のクルマを作るには、膨大な時間が必要だ。

正しい判断

ここでもまた、誰が何を担当し、どのデザイン案がどのデザイナーの功績なのかについて、大混乱が生じている。確かなのは、ウォーカー氏の提案が再びグレゴリー氏をはねのけて採用されたこと、そして、より人目を引くようにフロントエンドを再設計するという条件が付いたことだ。

ほぼ10年ぶりとなるフォードの新型車は、大ヒット商品でなければならなかった。まったく新しく、現代的で、真珠湾攻撃以前の時代を彷彿とさせるデトロイトのライバル車を打ち負かし、消費者がショールームに駆け込むような、そんなクルマだ。

テスト開始

最終的なデザインが決定(まだ確定ではない)したフォードは、開発プロセスの次の段階に入った。1947年初め、既存のボディに新しい機械部品を隠して1949年モデルのテストを開始し、その2か月後には最初の完全なプロトタイプが公道に繰り出した。

タイムリミットは刻一刻と迫っており、1950年モデルまで発売を延期することは不可能だった。しかし、テストドライバーとエンジニアたちは、わずか1年余りの間にさまざまなテスト車両で合計160万km以上の走行試験をこなした。

輝かしいデビュー

開発プロセスには1000万人時もの工数と、推定7200万ドル(現在の価値で約10億ドル=約1450億円)の費用がかかった。そして1948年6月18日、ニューヨーク市のウォルドルフ・アストリアホテルで開催された盛大なイベントで、ついに1949年モデルシリーズが発表された。

他に類を見ないフォルム

1949年モデルは、従来型よりも約4インチ(約10cm)低くなり、かなりモダンな外観になった。プロペラ型のクロームメッキグリルが最も特徴的なデザイン要素であるとされたが、滑らかでフラットなサイドボディも画期的なものだった。そして、独立懸架式フロントサスペンションにより乗り心地を向上させ、広くて快適なインテリアを実現していた。

フォードの勝利

ヘンリー・フォード2世は、1949年モデルを約18か月で量産化にこぎつけ、フォードを率いるのに経験不足だと批判する声を完全に黙らせた。彼はミシガン州ディアボーンのルージュ工場から最初の車両を自ら運転して工場外へ出荷した(写真)。

そして好景気で新車購入意欲に溢れた人々から、発売初日に10万台以上の注文が寄せられた。

1949年モデルのラインナップ

1949年モデルには、ベースグレードの『スタンダード・シリーズ』と、上級の『カスタム・シリーズ』がラインナップされた。それぞれ、2ドアと4ドアのセダン、6人乗りのクーペなど、多様なボディスタイルが用意されていた。スタンダード・シリーズでは、後部座席の代わりに広大な収納スペースを備えた3人乗りのビジネスクーペを選択でき、カスタム・シリーズではコンバーチブルやワゴン(写真)を注文することができた。

数字で見る1949年モデル

スタンダードとカスタムは、さらに6気筒と8気筒のバリエーションに分かれている。最もベーシックな仕様では3.7L直列6気筒、最高出力96psのエンジンが搭載されている。フォード伝統の3.9LフラットヘッドV8エンジンは、最高出力101psを誇る。

エンジンのシリンダー数に関わらず、全車、3速マニュアル・トランスミッションと後輪駆動が標準となった。オプションでオーバードライブ機能も用意されていた。

車内の雰囲気

1949年モデルのインテリアは、エクステリアと同様にモダンだった。ほとんどのボディスタイルは、2列のベンチシートで6人乗りだが、ビジネスクーペは1列シートで3人乗り、ワゴンは8人乗りだ。フォードは、当時の広告で「ラウンジカーのようなインテリア、豪華な装備、そして大きな窓からの視界」を誇らしげに強調していた。

1949年モデルの価格は?

1949年モデルで最も安価なモデルはビジネスクーペだ。主に商用利用をターゲットに、6気筒エンジン搭載車で1333ドル(現在の約2万ドル=約290万円)で販売されていた。一方、V8エンジン搭載のワゴンは2264ドル(現在の3万1000ドル=約450万円)と、ラインナップの頂点に位置していた。参考までに、1949年の米国の平均年収は3000ドル(現在の約4万1000ドル=約600万円)である。

得られた成果

まったく新しいモデルを短期間で市場に投入するのは、非常に困難でストレスの多い仕事だ。多くの人は不可能だと考えていたが、フォードはそれを成し遂げ、大きな成果を収めた。

1949年、フォードは112万台を生産し、1948年の生産台数を大幅に上回った。同年のシボレーよりも約10万台多かった。重要なのは、1949年モデルがフォードに推定1億7700万ドル(現在の約24億ドル=約3480億円)という多額の利益をもたらしたことだ。

1949年モデルの余波

1949年モデルがフォードを救ったと言っても、決して過言ではない。1950年代初頭に好調な販売を見た同社は自信を得て、1956年に株式公開へと至った。創業者ヘンリー・フォード氏は株式公開に反対していたが、彼は既にこの世を去っていた。1949年モデルとその派生モデルによって生み出された利益の一部は、1955年発売の初代サンダーバード(写真)といった新型車の開発資金にも充てられた。

ミシガンからワシントンへ

ヘンリー・フォード2世がフォードの社長に就任した際、1949年モデルの開発のために雇った人材の多くは、すぐに昇進していった。10人のウィズ・キッズのうちの1人であるロバート・マクナマラ氏(1916-2009、写真)は、なんと1960年に社長に就任している。それまでの社長は皆、創業者と同じ家系の人間だったことを考えると、これは大出世だ。

しかし、彼は社長の座に長くは留まらなかった。その同じ年にジョン・F・ケネディ大統領から国防長官に任命され、1968年までその職を務めた。1962年のキューバ危機では平和的解決に貢献したが、ケネディ、そしてリンドン・ジョンソン政権下で、ベトナム戦争への米国の関与を拡大した。

1949年モデルの現在

発売から70年以上経った今でも、フォードの1949年モデルはそれほど希少な存在ではない。前述のように、当時かなりの台数を販売していたからだ。ただし、改造や酷使されていない個体を見つけることは非常に難しいだろう。プロアマ問わず、何千台もの車両がホットロッドに改造され、野原や納屋で朽ち果ててしまった。走行はできても修理が必要な個体は1万ドル(約145万円)以下、無改造で、コンディションの良好な完成車の場合は2万5000ドル(約360万円)程度かかる。

ボディスタイルによっては人気が高く、木製サイドのワゴンモデルは10万ドル(約1450万円)近くで取引されることもある。また、車両の大半が米国国内に留まっているため、状態を問わず購入を検討している場合は、米国から探し始めるのがベストだろう。いずれにせよ、その過程で「ブルーオーバル」の歴史の一部に触れることになるのは間違いない。

文:AUTOCAR JAPAN AUTOCAR JAPAN
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