2024年のF1モナコGPで母国初優勝を果たした。フェラーリのシャルル・ルクレール。“モナコの呪い”から解き放たれた時、彼の脳裏では全ての思い出がフラッシュバックし始めた。
モナコで育った幼い頃、ルクレールはカジノ広場までの曲がりくねった登り坂をバスで通学し、いつか同じ道をレッドに染まったフェラーリのF1マシンで駆け上がることを夢見ていた。
■悲願の母国優勝で涙止まらず。ルクレール「ビアンキや父のことが頭をよぎって集中するのに苦労した」
ルクレールの亡き父エルヴェは、息子の夢を実現するためにあらゆる犠牲を払ったが、F1ドライバーとなった姿を見ることなく2017年にこの世を去った。
また、フランス・ブリニョールのサーキットで共にカートを走らせた亡き友人、ジュール・ビアンキがフェラーリの育成プログラムを経てF1にたどり着くまでの道のりで、ルクレールにとって単なる親友というだけでなく、道を指し示すメンターでもあり、いかに重要な存在であったかは計り知れない。
「フィニッシュまで残り2周という時点で、涙が溢れてトンネルの先を見るのが大変だった」
ルクレールはレースをそう振り返った。
「僕は『ダメだ、シャルル。今こんなんじゃダメだ。あと2周残っているんだ』と思ったよ」
「僕は父のことを色々と考えていたんだ。そしてモナコは、僕にF1ドライバーになるという夢抱かせてくれたグランプリなんだ」
「幼い頃、友人、そして父とレースを観ていたことを覚えている。そのおかげで、今の僕があるんだ。今日は僕の夢だけじゃなくて、父の夢も達成できたような気がする」
ルクレールに襲いかかった”モナコの呪い”
モンテカルロ市街地サーキットはルクレールに多くの試練を与えてきた。しかし、それらが呪いを打ち破るだけの強さを生んだのだろう。
2017年にF1直下のFIA F2で圧倒的な強さを誇ったルクレールは、モナコ戦のフィーチャーレースをポールポジションからリードしていたが、メカニカルトラブルが発生しリタイアとなった。
ルクレールは2018年にF1デビューを迎えたが、モナコGP決勝ではザウバーのマシンにブレーキトラブルが発生し、トロロッソのブレンドン・ハートレーに追突する形でリタイア。フェラーリに昇格して迎えた翌年のモナコGPでは、予選Q1終盤までガレージに留まるという誤った判断でQ2へ進出できず、レースではルノーのニコ・ヒュルケンベルグとの接触によるダメージでまたも完走できなかった。
COVID-19による開催中止を経て迎えた2021年のモナコGPでルクレールは、予選で最速タイムをマーク。ポールポジションを獲得したが、その後の周回でクラッシュを喫した。そして決勝レースに向けてダミーグリッドに着くまでのラップで、ドライブシャフトの問題が発覚し、スタートすらできなかった。
レースに参加できないと分かっていたものの、ルクレールはグリッドまで歩き、他のドライバーたちと合流。真っ赤に染まったグランドスタンドの声援に応えた。母国での初優勝という最高のチャンスは、ルクレールの手からこぼれ落ちていった。
「ガレージでは、大丈夫だと感じることがとても、とても難しかった」
ルクレールは当時そう語った。
「残念だけど、今はこの感覚に慣れようとしている。ここでは完走したことがない。今年はポールポジションなのに、スタートできないんだ」
必勝を願い挑んだ2022年のモナコGP。ルクレールはまたもポールポジションを獲得し、母国での初優勝に向けて舞台は整ったと思われた。しかし決勝でフェラーリは目まぐるしく変わる天候に翻弄され戦略面でミス……ルクレールは4位に後退と、完走はできたものの表彰台すら逃すという結果になった。
無論、ルクレールは「とんでもない惨事だ」と憤慨し、次のように嘆いた。
「勝利は明らかに、僕らの手の中にあった。パフォーマンスもあった。全てを手にしていたんだ」
「戦略の判断は本当に理解できないし、今は説明が欲しい。もっと良くなる必要がある」
ようやく掴んだ母国での勝利
2023年シーズンは、最速のレッドブルとマックス・フェルスタッペンのコンビにフェラーリ勢は敵わず。シーズンで唯一勝利のチャンスが訪れたシンガポールGPを制したのは、ルクレールのチームメイトであるカルロス・サインツJr.だった。
しかし2023年からチーム代表に就任したフレデリック・バスールの下、フェラーリは改善を続けた。2022年モナコでの痛みを糧に、今年のモナコではパズルのピースが全て上手くはまった。
ルクレールはフェラーリSF-24を武器に、予選でポールポジションを獲得すると、稀に見るタイヤマネジメントレースとなった決勝でも隙のないドライビングで首位を快走した。
ついにトップチェッカーを受けたルクレール。長年のフラストレーション、思い出が溢れ出し、無線で叫び声を上げた。そしてマシンを止めた後、クルーやバスール代表、アルベール2世の腕の中に飛び込んだ。
モナコGPでモナコ人が優勝するのはルイ・シロン以来93年ぶり。1950年にF1が世界選手権として誕生してからは初の出来事だった。
「2度もポールポジションからスタートしながら、なかなか表彰台に上がれなかったという事実が、ある意味、余計に良かったのかもしれない」
ルクレールはそう語った。
「僕は呪いを信じたことはない。でも、(ポールポジションを獲得した)2回のレースではここで勝たなければいけないと、いつもとても厳しく感じていた」
「そのうち1回はレースをスタートすることすらできなかった。2回目は正しい判断ができなかった。勝利を逃したことを、とても、とても悔しく思っていた」
「ドライバーというのは、次にいつ勝つチャンスが訪れるか分からないモノだ。特に自分のホームレースであるモナコは、全てを完璧にこなすのが難しく、レース週末も難しいんだ」
レース前は緊張していたと明かしたルクレールだが、プレッシャーを感じないためにできることは全てやったという。
決戦の前に”チートデイ”
多くのドライバーがそうするように、ルクレールも自宅で寝泊まりができたのも救いになったはず。少し異例の“最後の晩餐”もそうだろう。
「(土曜日の)夜は狂ったように食べたんだ」とルクレールは明かした。
「実際、家に帰るのが遅すぎて料理できなかったんだ。それで大好きなピザを注文した。レースに向けた準備としては、普段は向かないけど『精神的に少しプレッシャーが和らぐかもしれない』と思ってね。それでぐっすり眠ることができた」
「過去2回、このポジションにいた時の気持ちは分かっていた。もちろん、本当に優勝したかったから、少し緊張していた。でもヘルメットを被ってマシンに乗り込むと、もう何も感じなくなるんだ」
それでも、レースを終えるまで全ての感情を抑えることは不可能だったというルクレール。そうした感情でのレースは、父エルヴェを亡くした数日後に行なわれた2017年のF2バクー戦以来だったという。
「僕としては、未だ昨日のことみたいに覚えているから、精神的にマネジメントするのが難しかった」とルクレールは言う。
「でもドライビング中にこういうことが起こるのはキャリアの中でも2度目のことだ。父と共に過ごした全ての時間、今いる位置に僕を引き上げるために彼が払ってくれた全ての犠牲がフラッシュバックしたんだ」
しかしF2バクー戦で当時19歳だったルクレールは、完璧なレースを披露して優勝。天性のスピードに匹敵する鋼の心を見せつけた。
父、そして友人との惜別に挫けることはなかったルクレール。何年にもわたって苦悩しながらも生涯の夢を諦めず、生まれ育ったモンテカルロで今年ついにリベンジを果たした。
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