1964年の東京オリンピック開催を前にハイウェイなど道路整備は急ピッチで進み、やがて日本にもスポーツカーの時代がやってきた。加えて国内レースの注目も高まり、メーカー各社は高性能車の開発を競う。そんななか登場したのがトヨタ2000GT。大量生産を前提とせず、世界基準の高級スポーツカーを目指した結果、販売価格は238万円(現在の貨幣価値でおよそ2000万円)。それでも1台数十万円の赤字だったといわれている。
→【写真 23枚】「こんなに美しいクルマはもう出てこないかもしれない…」「前期と後期でデザインが違うんだ?」日本が誇る名車トヨタ2000GT
●文:横田 晃
―― 1965年のモーターショーで注目を集めた2000GT。全高は同年4月に発売されたトヨタスポーツ800より45mmも低く、国産車で初めてリトラクタブルライトも採用。この美しいシルエットは米国のデザイナーズアカデミーで学んだ日本人デザイナー野崎喩氏が手がけている。
―― 大きく突き出たセパレートタイプのリヤバンパー。さらにその下には、特徴的なキャブトンタイプの 2 本出しマフラー。
―― 回転計と速度計は円錐形の無反射ガラスを採用、その他5つのメーターはドライバー側に傾斜して埋め込まれている。テレスコピック機能付きのマホガニー製のステアリングや木製のパネルは高級家具さながらの豪華さ。シートはちょっと薄手、前期型はヘッドレストがない。
―― スピードメーターは250km/h、タコメーターは9000回転(レッドゾーンは6800回転から)が刻まれている。またセンターパネル部分には、5連メーター(左から、燃料計、油圧計、油温計、水温計、電圧計)が配置され、その下にラジオ、さらにその下には時計とストップウォッチが装備される。ちなみにストップウォッチ横にあるトグルスイッチは、オートアンテナの出し入れスイッチ。
―― クラウンに搭載されていたM型2ℓ直列6気筒のシリンダーブロックをベースに、ヤマハ発動機の協力でシリンダーヘッドを中心に大改造、DOHC化したエンジン。
―― 荷室の床面下にスペアタイヤと工具が収まる。左右にある大きな張り出しはサスペンション形状による。
―― 前輪の後方左右にあるサービスリッド。運転席側にバッテリー、助手席側にはエアクリーナーなどが収まった。
―― トヨタ2000GTのヘッドライトは、ランプ本体が上下に稼働するリトラクタブルヘッドライトを採用。また、フロントグリル横に配置されたライトはフォグランプ。後期型ではフォグランプが縮小され、フロントグリルと一体デザインとなっている。
―― 主要諸元(トヨタ2000GT前期型)
F1参戦のホンダに対しトヨタが目指したのは「ル・マン」だった
高度経済成長に沸いていた1960年代の日本人にとって、あらゆるカテゴリーにおいて世界に肩を並べることは、悲願とも言えた。世界に負けないモノを自分たちで作り、手に入れることが、多くの日本人の共通した目標だったのだ。
その目標は着々と実現されつつあった。1964年に開催されたアジア初のオリンピック。それに合わせて開通した、世界最速の新幹線。まだマイカーには手が届かなかったけれど、世界レベルの技術や国力を証明するインフラやイベントが相次いで形になり、誰もが「やればできる」と思えた時代だった。
1964年春に鈴鹿サーキットで開催された第二回日本グランプリで、プリンススカイラインGTがわずか一周とはいえポルシェ904の前を走ったことも、だから新聞が書き立てるほどのニュースになった。それは後年に「スカG神話」と呼ばれる人気へとつながることになる。それまで、必ずしもレース活動に熱心とは言えなかったトヨタも、負けてはいられなかった。
日本GP後の1964年夏、「レースで勝てる、高性能なスポーツカーを作れ」という指示が、当時、トヨタがレースに参戦するために作ったTMSC(トヨタモータースポーツクラブ)の監督だった河野二郎氏に下ったのだ。当時のトヨタでは、1961年に登場したパブリカをベースとした軽量級のスポーツカー、トヨタスポーツ800の開発が進んでいた。しかし、河野氏が開発を命じられたのは、世界の一流ブランドと伍して戦える、本格的なスポーツカー。想定されていたのは国際GTカテゴリーの規定を満たす、500台の生産台数をクリアするクルマだった。当時、すでにF1参戦に向けて動きだしていたホンダに対して、トヨタがフォーミュラカーではなく、市販車ベースで競われるGTカーカテゴリーを目指したのは、当然と言えば当然だった。最終的な目標は、ル・マン24時間レースだったからだ。ただし、当時のトヨタは世界ではまだ弱小メーカー。海の物とも山の物とも知れないそんなプロジェクトに、量産車のように豊富な人員や設備を割くほどの余裕はなかった。
そこで河野氏は、信頼できる少人数のプロジェクトチームを組んだ。その人選と体制が、のちに名車と呼ばれるクルマを生むことになる。コロナなどを手がけたデザイナーの野崎喩氏と、ヤマハがそのキーマンとなった。
世界基準のGTを目指して結成された5人の開発チーム
当時の日本の自動車エンジニアのなかには、まだ自動車運転免許すら持たない者が珍しくなかった。航空機の開発エンジニアが、パイロットである必要はないのと同じこと。まだトヨタの社員でさえマイカーには手が届かない時代だ。主力商品もトラックやバンなどの実用車だから、それでも問題はなかった。しかし、趣味性も大きな魅力となる世界レベルのスポーツカーを開発するのに、世界のスタンダードも知らないそんなエンジニアが通用するわけがない。その点で、野崎デザイナーはうってつけの人材だった。
東京芸大の工業デザイン科卒の俊英だった彼は、2000GTの開発が始まる前の1963年に、多くの有名自動車デザイナーを輩出しているアメリカのアートセンター・スクールに留学。本場のGTカーの立ち位置や使われ方に衝撃を受け、いつか自分の手で作りたいと考えていたのだ。河野氏が集めたエンジン担当の高木英匡氏、フレーム/サスペンション担当の山崎新一氏、テストドライバーを務めるレーシングドライバー出身の細谷四方洋氏の、総勢たった5人の開発チームは、野崎氏の語る理想のGTカー像に賛同した。
そうして固まった2000GTの開発目標、今でいうコンセプトは以下の5項目だった。
(1)本格的な高級スポーツカー
(2)日常的な実用性の高い高級車
(3)生産性より高品質性を重視
(4)海外市場への適応性を重視
(5)国際自動車連盟(FIA)のGT級適合
彼らは1964年9月にチームを立ち上げると、一気呵成に図面作成を進め、暮れまでには基本的なそれを描き上げてしまった。野崎氏のデザインは、最初から高い完成度を見せた。当時、量産車の開発ではすでに常識だったクレイモデルも作らず、5分の1の縮尺で描かれた線画と呼ばれる図面は、のちに木製のモックアップを作ると、修正なしでピタリと面が出たという。X型バックボーンフレームや4輪ダブルウィッシュボーン式サスペンション、DOHCエンジンなどの仕様は、その段階で決まっていた。世界に通用するGTカーを作るためには、それは必然のメカニズムだったのだ。
ただし、この段階では、どこでどうやって作るかは決まっていない。それが決まったのは、1964年暮れのこと。パートナーとして選ばれたのは当時、すでに二輪車で名を成していたヤマハだった。
二輪で高度なエンジン技術を磨いたヤマハは、次に四輪進出を目指す
明治時代に日本楽器製造として創業し、オルガンやピアノを作っていたヤマハは、優れた木工技術に目をつけた陸軍の依頼で、大正時代に木製の航空機用プロペラの開発製造を開始。実験用にエンジンも自社で開発したことをきっかけに、機械メーカーとしても頭角を現した。以後も持てる技術を活かすべく、様々な分野へと経営多角化を進め、戦後は1954年に125ccのオートバイ、YA-1を開発。それが発売された翌1955年にヤマハ発動機として楽器部門から独立すると、たちまちホンダやスズキと並ぶ二輪車業界の強豪となった。
1960年代には高度なエンジン技術を蓄積し、次は四輪車への進出を狙った。ただし、エンジン技術はあるが、四輪車のボディを作る鈑金技術はなく、シャシーの開発技術もない。欧州の自動車メーカーを視察して、量産四輪車の開発製造には途方もない設備投資が必要であることを知り、一方で、ポルシェのような半手作りの小規模スポーツカーメーカーなら自分たちでも目指せると踏んだ。
そこでボディ作りを学ぶために日産と提携し、受けた仕事が、当時のフェアレディのフレームに流麗なボディを載せた、初代シルビアの試作だった。日産から派遣された熟練鈑金職人、西岡幹夫氏の指導の下で、手作りで試作したシルビアの量産は、結局日産系列の他社に取られてしまった。しかし、その経験を活かし、オリジナルのモノコックボディに自社開発のDOHCエンジンを搭載した試作車、A550Xを開発。その経緯から、ヤマハ社内では日産2000GTと通称されていた。奇しくも同名のクルマの開発・生産協力会社を求めていたトヨタから声がかかった1964年暮れは、ちょうどそんな時期。まさに渡りに舟だった。日産から派遣された西岡氏はそのままヤマハに移籍しており、彼をリーダーに野崎氏が描いた図面を形にしていったのだ。
ヤマハが二輪車で蓄積した高いエンジン技術は、クラウン用のM型SOHC6気筒エンジンのDOHC化に遺憾なく発揮された。前身である楽器製造の技術を活かしたローズウッドのパネルやステアリングも、まさにトヨタ2000GTのためにあるようなものだった。
ベルトコンベアもないヤマハの工場で一台一台、ていねいに作られたトヨタ2000GTは、そうして最終的に試作車をふくめて337台が作られた。残念ながら国際GT規定の500台には届かず、ル・マンへの出場はかなわなかった。現代なら数千万円相当の238万円という価格でも、トヨタは当時の金額で軽く数十億円の赤字を出してもいる。
そもそも河野氏に開発が命じられた段階では、市販の予定もなかったのだ。けれど、その美しい肢体は、初めて出品された1965年の東京モーターショーで、トヨタ自身が驚くほどの世界からの反響を呼んだ。
翌年の第三回日本GPでは、初出場にしてポルシェに次ぐ3位に入賞。同年秋に挑んだスピードトライアルでは、3つの世界記録をふくむ13の国際記録を樹立して、日本中が沸いた。当時の石田退三トヨタ会長はその声に応え、赤字覚悟で1967年の発売にGOを出したのだ。
決算書の上では赤字の事業だったかもしれない。けれど、それがトヨタにもたらした果実は計り知れなかった。広告費と考えれば安いものと言えるだろう。トヨタとヤマハの関係はその後も続き、今日の多くのトヨタDOHCエンジンはヤマハが手がけている。レクサスLFAの開発・生産でも、2000GTと同様にヤマハが多くのパートを担当している。それらの関係者の誰か一人欠けても、このクルマは生まれなかった。名車トヨタ2000GTは、半世紀前の自動車人の情熱とタイミングが生んだ、まさに奇跡の一台だったのである。
―― フレームは強靭なX型で、プロペラシャフト、エキゾーストパイプ、サブマフラーが箱型のバックボーンの中におさめられている。指定機構のサービス期間がそれまでの2倍以上となり、2 年または5万kmの長期保証が付いていた。
トヨタ2000GT変遷
―― 1964年・開発プロジェクトが始まる1965年・試作1号完成・東京モーターショーへ出品1966年・谷田部の高速試験場でスピードトライアル敢行1967年・販売開始(5月)1969年・マイナーチェンジ(8月)1970年・生産終了(10月)
―― 前期型と後期型
前期と後期をひと目で見分ける決め手はフォグランプ。後期型は小型化によりフロントグリルと一直線上のリム内に収まっている。また後期型ではイエロー、ターコイズブルー、グリーンの3つの純正ボディカラーが追加されている。
○後期型の主な変更点 2000GT後期型(1969年8月~)
・フォグランプおよび同リムのデザイン変更/小型化
・フロントウインカーレンズの大型化/色変更( 白色→橙色)
・リアサイドリフレクター大型化
・インストルメントパネルデザイン変更
・ステアリングホーンボタン大型化
・ドアインナーハンドル形状変更
・クーラーを追加装備
・トヨグライド( 3AT)車の追加 など
3つの世界新記録と13の国際新記録をつくったレコード・カー
トヨタ2000GTの超高速耐久トライアルは、FIA(国際自動車連盟)とJAF(日本自動車連盟)のルールに従って、昭和41年10月1日から3昼夜、谷田部のテストコースで行われた。折から襲来した台風28号の影響による豪雨と強風という悪条件をはねのけ、連続走行78時間。平均時速206.18kmの超スピードで、16,000kmを走り続けた。その結果、3つの世界記録(排気量無制限)と13の国際新記録(1500~2000ccクラス)を樹立、世界のトップレベルを行くトヨタ技術と、トヨタ2000GTの高性能をみごとに実証した。この記録は、日本で初めてのFIA公認記録である。
―― 高性能をアピールするため連続78時間の高速走行トライアルが行われ、1万マイルを平均車速206.1km/hで走り、3つの世界新記録(当時)を達成。
―― トヨタ2000GTトライアル(1966年) 1966年10月1日から10月4日の4日間にわたり、自動車高速試験場にてFIA(国際自動車連盟)公認のスピードトライアルに挑戦した車両(写真車両はレプリカ)。
日本車で唯一ボンドカーになった2000GT
007シリーズの第5作「007は二度死ぬ」は日本が舞台となり、ジェームズ・ボンドの相棒的存在ボンドカーにはトヨタ2000GTが採用されている。ただしその決定にはドラマがあった。日本が舞台なら日本のクルマを、と売り込みに行った2000GTの河野主査は、オープンカーにできるのならという厳しい条件を突きつけられる。オープンカーの改造には1年以上かかるのが普通。しかし撮影スケジュールは待ったなし。トヨタサービスセンター(現テクノクラフト)は昼夜を徹した突貫工事の末、わずか2週間でこの2000GTボンドカーを完成させた。トヨタ側は強度の問題から当初タルガトップを提案したが、撮影の都合上フルオープンになったという。
―― トヨタ2000GTボンドカー(1966年)
―― フロントガラスは取り外し可能なアクリルガラスに変更され、トランクが新たに設定されている。なお幌はダミーだった。
―― メーター類や時計/ストップウォッチなど内装や計器類はほぼオリジナルどおり。裏を返せば変更せずともボンドカーのクオリティを備えていたといえる。前期型ベースのためシートはローバック。
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ショーン•コネリー演じるジェームズ•ボンドは作中で一度も運転してないんだが…すべて助手席に鎮座。