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山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.10「奇跡的に間に合ったテスト体制づくり」

二転三転もなんとか説得!

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。物語の舞台は前回から、ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラスへの挑戦を決定した2000年。当時のことを、詳細に振り返ってもらいます!

連載:山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]【独占Webコラム】

TEXT: Toru TAMIYA

「とにかく我々の話をもう一度聞いてください」

ブリヂストンのテストコースにHRCのメンバーを招いて実施した2000年9月末のテストで、アーヴ・カネモトさんがレース運営から身を引こうとしていることを知ってから、わずか4日後(現地時間の10月2日)。米国ロスアンゼルスの空港で、私はアーヴさんと会っていました。ちょうどその週末には、ロードレース世界選手権(WGP)のリオGPが開催。日本からブラジルへ向かうフライトのトランジットを利用して、アーヴさんと会う約束を取り付けていたのです。

日本を月曜日の17時過ぎに出発して、ロスには同日の12時前に到着。ブラジル・サンパウロ行きのフライトは21時出発なので、十分な時間がありました。しかし私は、サーキットのパドックでは顔を合わせていたものの、アーヴさんと話をしたこともない状態。しかも、空港を出てすぐのところで待ち合わせしていたのですが、アーヴさんの姿は見当たらず焦りました。とはいえ携帯電話で連絡してなんとか会うことができ、すぐに空港内のカフェで、準備してきた資料を見てもらいながら我々の計画を説明しました。するとアーヴさんは「チャレンジングで面白そうなプロジェクトだ!」と言ってくれて、雑談も含め2~3時間はゆっくりと話ができたので、かなり好感触を得た自信がありました。

アーヴさんと別れて向かったリオGPでは、東雅雄選手をはじめとするサポートライダーたちのケアをする通常の業務も当然ながら多くありましたが、その合間にも毎日アーヴさんに電話を入れて、「どうですか? 一緒にやりましょう!」とラブコールを送り続けました。東選手や他のライダーには申し訳ないのですが、そのときの私はアーヴさんを説得することで頭がいっぱい。あのウィークのGP125に関する記憶はほとんどありません。そしてアーヴさんは、電話で「前向きに検討中だ」と回答してくれていました。

ところが、私が日本に帰国後、再度アーヴさんに電話をしたところ、返ってきたのは「いろいろ考えたけど、やっぱり止めた」というものでした。これは推測なのですが、アーヴさんは周囲が想像している以上に慎重な性格なのだと思います。しかし当時の私は、そんなことはまるで知りませんし、そもそも2001年の頭からテストチームを稼働させることを考えたら時間はまるでない状態なので、とにかく焦りました。そこで私は、アーヴさんにひとつの提案をしました。「費用はすべてこちらで持つので、とにかく一度日本に来て、我々の話をもう一度聞いてください」と。しかしこれが実現したのは、11月も中旬に入ってからのことだったのです。

―― 2000年リオGPの東選手はトップと0.034秒差の2位。しかし山田さんは、ブリヂストンユーザーが表彰台に登壇したうれしさや優勝を逃した悔しさよりも、アーヴさんのことで頭がいっぱいだった!?

他の候補者は想定していなかった

テストチームの体制とあわせて、もうひとつの大きな問題となったのはテストライダーの人選。これに関しては当初から、ケガなどのリスクを考慮して2名体制を想定していましたが、我々としてはWGPのGP500クラスに参戦経験がある現役選手というのが理想でした。2名のうち伊藤真一選手は、HRCからの紹介で、すぐに話をしたところ比較的早い段階で合意に至りました。2000年の伊藤選手は全日本ロードレース選手権のスーパーバイククラスに参戦していましたが、彼はかつてWGPのGP500クラスで優勝争いを経験しており、タイヤの重要性も熟知しているライダー。本人も開発という仕事が好きで、我々のプロジェクトに強い興味を持ってくれていたので、心強いパートナーになると確信していました。

―― 写真は2000年の全日本ロードレース選手権(第1戦 鈴鹿)スーパーバイククラスに参戦した伊藤真一選手。WGPのGP500クラスを含む豊富なレース経験を持つこともあり、開発ライダーとしての期待値は高かった。

もうひとり、我々が打診したのは青木宣篤選手でした。ご存知、青木三兄弟の長男。2000年はスズキワークスチームでWGPのGP500クラスに参戦していて、おそらく翌年もチームに残って継続参戦する道はあったと思うのですが、私はプロジェクトがスタートして間もない夏ごろの早い段階から、レース会場で会ったときなどに宣篤選手を誘っていました。我々のプロジェクトに参加した場合、少なくとも1年間はレースに参戦することができない計画。宣篤選手がそのままスズキワークスに残れたのか、あるいは他のチームからのオファーもあったのか、いまも私にはわかりませんが、いずれにせよそれまで現役だった選手がレースを1シーズン退く決断をするというのは、かなり大きなことだと思います。

もちろん宣篤選手も、非常に悩んでいました。 宣篤選手とは、1990年に全日本で一緒に仕事をしたので気心は知れていて、私も必死だったので「一緒に良いタイヤを開発して、それでタイトルを目指してレースしよう!」と口説いていたのです。その結果 、2000年のWGP最終戦となった10月下旬のオーストラリアGPで、なんとか承諾を得ることに成功。私はこの段階で他の候補者を想定していなかったので、宣篤選手に断られていたらと思うと、本当に綱渡りで何とかギリギリ間に合ったという状況でした。こうして、まだアーヴさんとの関係がどうなるかわからないうちに、テストライダーは伊藤選手と宣篤選手に決まりました。

―― 2000年の青木宣篤選手は、スズキのワークスライダーとしてWGPのGP500クラスにフル参戦。山田さんが望んでいた「現役かつトップクラスの選手」という条件に、ばっちり当てはまっていた。※写真は日本GP@鈴鹿

本気で取り組んでいる、それを感じてほしい

そして11月中旬、いよいよアーヴさんが来日。アーヴさんと私をつないでくれたHRCのマネージャーにも同行を願い、夕方に成田空港に到着したアーヴさんを迎えに行き、その日の夜は都内で夕食をしながらミーティング。翌日はランチミーティング後に本社へ招き、役員と本部長と部長にも会ってもらい、さらにディナーでもミーティングを続けました。役員などに参加してもらうことで、このプロジェクトが会社として本気で取り組んでいることを感じてもらうための席でした。すると3日目、前日までに我々の強い意志を伝えたこともあり、アーヴさんの気持ちはかなり前向きに傾いていて、そしてついに具体的かつ詳細な契約条件を詰めるところまで漕ぎつけました。

アーヴさんはこの日の夕方に帰国したので、わずか2泊3日の短い時間で、アーヴさんの考えを変え、契約の基本合意まで達成したことになります。いま振り返ると、11月中旬の段階でまだそんな大切なことも決まっておらず、それどころか白紙に戻る可能性も多々あったわけですから、スゴい状況だったと思います。

このとき、金額的なことも含めて、アーヴさんには望む条件を提示してもらっていました。そこでメカニックとして名前が挙がったのが、現・コハラ・レーシングテクノロジーの小原斉さん。1990年代の数シーズン、カネモト・レーシングのメカニックを務めていた人物で、アーヴさんは「小原がいなければやらない」とさえ言っていました。そこですぐに小原さんのところに出向き、状況と計画を説明して、こちらは快諾を得ました。条件としてあった他の外国人メカニックに関しては、アーヴさん自身が依頼してくれて、これでバイクのメンテナンスなどに関する基本メンバーは揃いました。アーヴさんを中心に、ライダーは伊藤選手と宣篤選手で、メカニックはアーヴさんが信頼を寄せる小原さんとふたりの外国人。ドタバタ奔走しながらも、結果的にはその当時の状況で考えられるもっとも理想的な体制が完成したのです。

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