スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。
今回はコリンズがドライバーとして挑んだ2006年アメリカン・ル・マン・シリーズ第9戦プチ・ル・マンの後編。サポートイベントに出場するべく渡米したコリンズでしたが、彼を起用したチームは裏の思惑がありました。
2006年に初めて訪れたスーパーGTと富士で心奪われたフォードGTと紫電【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】
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2006年、私はIMSAライツに出場するべく、プチ・ル・マンが行われたロード・アトランタを訪れた。
チームが用意してくれたホテルは事前に聞いていたものとはちがうモーテルのような宿だったし、ヨーロッパから持ち込んだヘルメットはレギュレーションに合わないと言われ、急きょ新しいものを借りる必要に迫られた。挙げ句、私が乗る予定だったマシンはプラクティス前日だというのに組み上がってすらいなかった。
マシンを組み上げていたエラン・モータースポーツのスタッフは2回目のプラクティスセッション(練習走行)までにマシンを用意すると私に約束した。しかし、このパーツの山が近いうちにコースを走れる状態になるとは到底思えなかった……。
そして次の日、最初のオープンプラクティスセッション(練習走行)のためにサーキットに行ったが、私のマシンは影も形もなかった。
私はレースで使うパノス・エランDP04を走らせた経験はなかったし、ロード・アトランタを走ったこともない状態だったため、走行距離を稼ぐ必要があったのにピットウォールからセッションを眺めることしかできなかった。
さらに、私のマシンを走らせるはずのチームスタッフは食料の買い出しに出かけてしまった。誰かがチームのメカニックやドライバー(とそのガールフレンド)たち全員に、何を食べたいか聞いて回っていたが、私は無視された。私だって空腹だったのに。また、パドック内に食事を摂れるところもなかった。そういったお店は観客が入る翌日まで営業しないからだ。
そんな状況に置かれた私は、パドックを歩き回ってさまざまなチームと話をすることにした。そこで私が所属するパノス・エランにとってIMSAライツにおける最大のライバルであるウェスト・レーシング・カーズのスタッフとも言葉を交わした。
するとウェストのオーナーが、もし私のマシンが次のセッションにも間に合わなかったら、彼のチームのスペアマシンを使ってもいいと言ってくれた。このオーナーは非常にフレンドリーだった。
また、私のチームがランチを用意してくれなかったことを耳にすると、彼は私のためにハンバーガーを作ってくれた。それも美味しいハンバーガーをだ。もし2007年にふたたびIMSAライツを戦うなら、私は間違いなくウェストからの参戦を望んだだろう。
ただ、私はウェストのマシンを使ってもいいというオファーを丁重に断った。パノスは私のために新車を組み立てようとしてくれていたし、そのために資金もつぎ込んでいたから、ライバルチームのマシンを使ってプラクティスをこなすのは不誠実なふるまいだと思ったからだ。
しかし、あとからふり返れば、この判断は大きな間違いだった。私はウェストのマシンをドライブするべきだったのだ。彼らのマシンはパノスのものよりはるかに優れていて、もしウェストのマシンをドライブしていれば、翌日の結果は変わっていたのだから。
2回目のプラクティスセッションスタート時刻が迫ってきたにもかかわらず、依然として私のマシンは準備ができていなかった。チーム代表に尋ねてみても肩をすくめるだけ。私のマシンについては、まったく気にしていないようだった。
そのあとマシンの組み立てを担当していたエランに電話してみると、マシンの準備は整っているから引き取りに来て欲しいと言ってきた。そのことをチームに伝えると、彼らはエランがマシンをサーキットに持ってくるべきだと反論した。
こうしたやり取りをしている間にセッションが終わってしまい、結局2回のプラクティスセッションを逃してしまった。私に残された走行時間は、予選前の1セッションだけだ。
そして迎えた予選日、ようやくマシンが届いた。さっそく乗り込んでみたがシートが体にフィットしなかったので、チームに頼んで取り外してもらった。シートなしの状態で乗り込むと、私の体にはぴったりだった。
こうしてようやく、私は3回目のプラクティスセッションで初めてコースを走ることができた。ピットを離れると、すぐにふたつのことがわかった。ひとつは私のマシンがドライブしにくいものだということ、もうひとつはロード・アトランタが素晴らしいサーキットであるということだ。
私が乗り込んだパノス・エランDP04のエンジンとギヤボックスには大きな問題はなかったが、電気系はめちゃくちゃだった。ダッシュボードには今何速のギアで走っているのかが正確に表示されなかったし、エンジンの回転数も出なかったのだ。そのため、わたしはエンジン音だけを頼りにシフトチェンジのタイミングを見極めなければならなかった。
ピットに戻ったあと、この件についてチームに伝えたが、彼らは1速でピットを出たあと、ギアチェンジの回数を覚えていれば、自分が今何速で走っているかは分かると返答してきた。レーシングスピードで走るなか、それがどれだけ難しいか分かっていないのだろうか。
■アメリカン・ドリームを悪夢に変えたチームの“罠”
マシンには苦労させられたが、ロード・アトランタ自体は本当に素晴らしいコースだった。右カーブのターン1を抜けた先は見通しの悪い上り勾配につながっていて、その先には高速の下りセクションと、短い上りセクションが交互に迫ってくる。
その先は長いストレート区間を経て右カーブが連続するターン6~7へ。ターン7を立ち上がったあともロングストレートが待ち受ける。ストレートエンドにはシケインのターン10が待ち受け、そこを抜けると短い坂を上り、コース上にかかった橋の下をくぐる。
橋をくぐった先は下り勾配の最終セクションで、高速右カーブのターン11~12につながっている。私のマシンはこの最終セクションの下り勾配で必ずわずかに跳ね上がっていたが、それでも最終コーナーはアクセル全開で通過することができた。私が操るマシンは最悪の状態だったが、それでも楽しむことができていた。
私にとって最初の走行チャンスだったセッションが終わると、競技委員が私のところにきてカーナンバーが間違っていると指摘してきた。本来私が使うべきカーナンバーは12だったが、マシンには33が掲げられていたのだ。
この週末のIMSAライツでは違うドライバーがカーナンバー33を使用していたので、これが原因で混乱が起きていたのだ。つまりチームは正しいカーナンバーが付いているかさえ、気に留めていなかったことになる。
迎えた予選はひどく長く感じられるセッションだった。なんとかマシンの感触も改善し、コースも覚え始めていたが、あと少し攻め込もうとするとマシンがスピンしかけた。リヤのセッティングが合っていないように感じられた。
加えて、エンジンの回転数が分からないことも追い打ちをかけた。チームに何度も直すように伝えたが大丈夫の一点張りで、結局私はどのマシンにも遅れを取る羽目になった。
唯一、ラディカル勢にはタイムで迫ることができていたが、彼らはその週末パフォーマンスを発揮できていなかった。実際、元F1ドライバーのスリム・ボルグウッドも私と同じライツ2クラスに参戦していたのだが、彼が操るラディカルは私の目の前で火を吹いた。
走行を終えたあと、チームから予選を通過できなかったと伝えられた。正直、驚きはしなかった。私はホテルに戻り、デリバリーで頼んだピザを食べながら、がっかりした気分を味わった。ドライバーとしての自信は完全に地に落ちてしまったし、私のアメリカン・ドリームは悪夢に変わってしまった。
気分が落ち込むなかピザをつまんでいると電話が鳴った。ある人物が私のことをロビーで待っていて“秘密の場所”へ連れて行ってくれるというのだ。
その秘密の場所というのは、プライベートなカート用トラックだった。ここではアメリカン・ル・マン・シリーズとIMSAライツに参戦する多くのドライバーたちが、“プチ・プチ”と呼ばれるレースを戦っていて、私も参加することになった。このレースは“カオス”な展開で心から楽しめた。
“プチ・プチ”の途中、アウディドライバーのひとり(アラン・マクニッシュだったと思う)が高速コーナーに水をぶちまけたので、そこを通過した全員がクラッシュした。私もクラッシュしたひとりで、その衝撃で肋骨に痛みを感じていなければ大笑いしていただろう。
とにかく楽しいカートレースで、いったいつチェッカーが振られたのか分からなかったが、そんなことが気にならないほどレースを楽しみ、元気を取り戻した。
しかし一度戻ったテンションを長く維持することはできなかった。翌日サーキットに行くと、私が昨日ドライブしていたマシンがグリッドに並んでいて、別の誰かがコクピットに収まっていたのだ。
その後、チームは意図的に私を困難な状況に置こうとしていたことが分かった。彼らはこの週末、私にマシンをドライブさせるつもりはなく、ほかのドライバーを起用したがっていたのだ。
彼らは私が掴んだチャンスを活かすつもりはまったくなかった。だから、彼らは私のマシンをまったくセットアップしようとせず、私が失敗するように仕組んでいたのだ。
またマシンがグリッドに並んでいるということは、私が不通過と言われた予選を無事に通過していたことも意味していた。しかし、私が勝ち取ったグリッドはほかのドライバーにあてがわれていた。激しい怒りを覚えたが、できることは何もなかった。
結局、私は赤の他人が自分のマシンでレースを戦っている姿を観戦することになった。その彼もマシンのハンドリングがひどいと言い続け、レース中盤でリタイアした。
リザルト上では、今も私がレースをスタートし、リタイアしたことになっているのだが、レースを戦ったのは私ではないし、リタイアしたのも私ではない。私が戦っていたとされるレースを、私はウェスト・レーシング・カーズのスタッフと一緒にピットウォールから眺めていたのだ。実はこのとき、私は挑戦的にもウェストのチームシャツを着ていた。
私はチケットを買って入場した9万人の観客とともに、アメリカン・ル・マン・シリーズ本戦を見るときも、そのシャツを来ていた。
■傷心を癒してくれたプチ・ル・マン本戦
アメリカン・ル・マン・シリーズのレースには元気づけられた。アウディR10 TDIや、新車のポルシェRSスパイダーのようなマシンを見るのは特別な時間だったし、アストンマーティンとコルベットのバトルも見応えがあった。
性能調整が行われた結果、プチ・ル・マンではクリエーションのニコラ・ミナシアンがポールポジションを獲得していた。ザイテックの1台がアウディ勢の間に割り込み、2台のポルシェは5番手と6番手だった。
スタートからジャッドエンジンを搭載したブルーカラーのクリエーションが首位に立った。アウディはこの名声高いレースでプライベーターチームに負けてしまうのだろうかと思ったほどだ。
しかし、その不安は杞憂に終わった。しばらくしてアウディはなんとか前に出て、レースのコントロールを握ったのだ。ローラのマシンを走らせるインタースポーツとハイクロフト・レーシング、そして新興のダイソンは順調に走行しており、ポルシェRSスパイダーの前に出ていたが、アウディのディーゼルパワーには追いつけなかった。
またコース上には素晴らしいエンジンサウンドを轟かせるマシンがいた。それはBKモータースポーツのクラージュC65だった。このマシンはマツダR20Bの3ローターエンジンを積んでおり、驚くべきサウンドを奏でていた。シャシーは古く、特に速いわけではなかったが、そのサウンドはとにかく見事なものだった。
このマシンはその後、マツダのコンセプトカー“風籟(ふうらい)”のベースとなったのだが、残念なことに風籟がレースに出ることはなかった。
レースに話を戻そう。レースが進むにすれ、徐々にコース上を走るマシンが減っていった。スタートから6周後にはコースを走るラディカルSR9は1台だけになっていた。そしてレースが1000マイル(約1609キロ)の半分に届く前に、さらに3台のマシンがリタイアした。先頭集団にいた2台のLMP1クラスのローラとGT2クラスのフェラーリだ。
その時点までに4クラスで24台までに減っていたが、まだ先の長いレースに残っていた。しかし、それ以降にリタイアしたのは3台だけだった。レースの終了間近ではあったが、残念ながらクラージュ・マツダの1台もリタイアした。
レース終了間近、日も暮れてきたころにアウディの1台、2号車R10 TDIががGTカーに接触してサスペンションを損傷し、タイムを失った。首位に2号車アウディは他のR10 TDIとのギャップはわずかだったものの、優勝争いから脱落することはなく、リナルド・カッペロとアラン・マクニッシュはわずかのギャップを守って勝利を奪った。
GT1クラスでは長い戦いの後、アストンマーティンが僅差でコルベットを下した。この2ブランドのライバル関係はそれから何年も続くことになる。実際、アメリカン・ル・マン・シリーズは、人気が沸騰するところで、さらなるビッグネームやマニュファクチャラーを引きつけていた。
その後、アメリカン・ル・マン・シリーズが素晴らしいものに成長していったことは非常にうれしいことだし、最盛期を迎える前にシリーズを見ることができたこともよかったと思っている。
今ふり返れば、2006年のプチ・ル・マンは万人に認められるような素晴らしいレースではないのだが、個人的には記憶に残るレースだ。もちろん、私が出場するはずだったサポートレースのIMSAライツで苦い思いをしたからだ。
これ以降、私が本気でレースを戦うためにアメリカへ行くことはなかった。NASCARのテスト参加も検討したが、結局実行することはなかった。
IMSAライツ自体はその後も続いたが、残念ながらワンメイクシリーズとなりシリーズ名称も“マツダ・プロトタイプ・ライツ”に変更された。
私を快く迎え入れてくれたウェスト・レーシング・カーズはのちにレベル5モータースポーツに買収されたが、同社は金融スキャンダルに巻き込まれ、閉鎖された。
そういうわけで私が2006年のプチ・ル・マンを懐かしい気分でふり返ることはないが、印象的だったことは確かだ。まともなマシンでロード・アトランタのレースを戦ってみたいとは今でも思っている。
なによりも、私はロード・アトランタのレースに参加したことはないのだから、しっかりとレースに出て、公式記録を正したいのだ。
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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。
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