デビュー当時の価格は何と238万円
漫画『サーキットの狼』に登場し、映画『007』シリーズで日本車として初めて劇中車に採用されたトヨタ「2000GT」。いまや世界中のコレクターが注目するクラシックカーとなっています。
【画像】意外と知らないトヨタ「2000GT」のディテールを写真で見る(36枚)
今回は、そのトヨタ2000GTがどのようなクルマだったのかを振り返るとともに、日本で実際に大切に乗り続けているオーナーの一台をご紹介します。
池沢早人師(旧ペンネーム:池沢さとし)さんによる漫画『サーキットの狼』に登場し、1970年代後半に巻き起こったスーパーカーブームにおいても抜群の存在感を発揮したトヨタ2000GTは、もはやクルマというよりも“作品”に近い独特の雰囲気を有しています。
日本自動車史に燦然と輝く金字塔ともいえる2000GTは、マスプロダクション・モデルでありながら、トヨタが採算を度外視し、自社の技術力の高さを証明するために開発しました。
ヤマハ発動機が誕生・開発に携わり、1967年5月のデビュー当時に238万円という高価格で販売されたことなど、現在でも語り継がれる伝説的なエピソードを数多く内包しています。1967年5月から1970年10月までの間に、前期型が228台、後期型が109台しか生産されなかったことも、2000GTが神格化された理由のひとつであり、その希少性こそがこのモデルの特異性を象徴しています。
前・後期型を合わせてもわずか337台しか存在しない2000GTが、公の場に初めて登場したのは1965年秋のことでした。同年10月に開催された第12回東京モーターショーにてプロトタイプとして展示された2000GTは、来場者に「すぐに市販されるのでは?」と思わせるほどの完成度と、流麗なスタイルで脚光を浴びました。多数のスポーティモデルが展示される中でも、特に注目を集めたのです。
2000GTの基本コンセプトは、高性能グランドツーリングカー。動力性能はもちろん、エクステリアデザインの美しさ、居住性、快適性といった点でも国際的な水準が求められました。シャシには、当時のロータスが好んで用いていたX字型バックボーン・フレームを採用し、サスペンションは前後ともダブルウイッシュボーン。
パワーユニットは、フロントの車軸よりも後方に搭載され、後輪を駆動するヤマハ発動機製チューニングの3M型2リッター直列6気筒DOHCエンジン。ハンドメイドで製作されたボディのアウターパネルは、ロングノーズ&ショートデッキのスタイルで、空気抵抗の少なさを感じさせる見事なプロポーションを実現していました。
コックピットまわりには、ヤマハ発動機の親会社である日本楽器(現・ヤマハ)の協力によるローズウッド・パネルがあしらわれ、美しい室内空間を形成していました。従来の常識にとらわれることなく、理想を徹底的に追求した2000GTは、日本グランプリや耐久レースといったサーキットイベント、さらにはスピードトライアルへの挑戦を通じて熟成を重ねたのちに、一般販売が開始されました。
なお、市販モデルのホイールは、東京モーターショーに出展されたプロトタイプが装着していたヤマハ製のワイヤースポーク仕様から、神戸製鋼製のマグネシウムホイールへと変更されましたが、外観上の変更はほとんどなく、ファンを魅了した流麗な姿のまま市販化されました。
また、150馬力を発生する3M型エンジンによって達成された最高速度220km/hというスペックに対抗できる国産車は、1980年代に入るまで現れなかったことも、記しておきたい事実です。
“万全の体制”でデビューを飾った「2000GT」
前述のように、1965年の東京モーターショーでベールを脱いだ2000GTは、国内での認知度向上と車両の熟成を兼ねて、レースやスピードトライアルに挑戦しました。その詳細は以下の通りです。
まず1966年5月、第3回日本グランプリにおいて3位入賞。同年10月には、茨城県谷田部の自動車高速試験場で行われたスピードトライアルに挑戦し、3つの世界新記録と13のクラス別国際新記録を樹立しました。
そして1967年に公開された映画『007は二度死ぬ』では、ロードスター仕様にモディファイされた2000GTがその美しい姿を披露し、世界中にその名を知らしめました。市販開始の時点ですでに多くのクルマ好きを虜にしていた2000GTは、その発表から発売までの期間における活躍ぶりが実に目覚ましいものであったと言えるでしょう。
このようにして、まさに“万全の体制”でデビューを飾った2000GTは、動力性能・スタイリングともに国際レベルに達していたことからも察せられるように、開発初期の段階から海外市場、とりわけアメリカ市場を強く意識していました。
開発プロジェクトのリーダーである河野二郎氏は、「アメリカで売れなければ本物ではない」と口癖のように語っていたといわれており、現地のレギュレーションに対応するため、リトラクタブルタイプのヘッドライトを採用していたことも、それを物語っています。
こうした背景を受け、トヨタはPR活動の一環として、2000GTをアメリカのサーキットで走らせることを決定。1967年5月の市販開始直後に参戦プランが立ち上がり、海外レースへの挑戦が本格化しました。
海外でのレース活動は事実上初めてだったこともあり、マシン製作をはじめとするすべての業務は、キャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカン・レーシング・チームに委託されました。
1968年初頭、トヨタとシェルビー・アメリカンとの正式契約が結ばれ、シェルビーはドライバーとしてデーブ・ジョーダンとスクーター・パトリックを指名。前者がゼッケンナンバー23番(青いボンネット)、後者が33番(赤いボンネット)のステアリングを担当することとなりました。
結果として、2台のポルシェ911S、トライアンフTR250に次ぐ総合4位で1968年シーズンを終え、翌年の活躍が期待されましたが、トヨタは突如としてアメリカでのレース活動からの撤退を表明。2000GTによるSCCAレース参戦は、わずか1年で幕を閉じました。
かつてトヨタ2000GTオーナーズクラブ・ジャパンの会長を2年間務めたSさん(76歳)は、1985年に後期型の2000GTを迎え入れました。それから40年が経過した現在も完調を維持し、すでに走行距離は9万km弱に達しています。
「コロナ前に2000GTで九州北部を回り、一昨年は四国を一周、昨年は東北を一周しました。今年は九州南部を2000GTで走ってきます」
そう語ってくれたSさんの2000GTは、まもなく走行距離10万kmに達することでしょう。
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