フェラーリにとってもっとも恐ろしいライバル
2020年4月12日、サー・スターリング・モスがこの世を去った。スクーデリア フェラーリは「最も恐ろしいライバルのひとり」の逝去の報に接し、追悼文を捧げた。以下、訳文を掲載する。
スクーデリア フェラーリ、サー・スターリング・モスの逝去に追悼を捧げる
スクーデリア フェラーリは、1950年から1962年の間にサーキット上で最も恐れるべきライバルのひとりであったサー・スターリング・クロフォード・モスに敬意を表する。いかなる時も彼が偉大なるレーシングドライバーのひとりであることに疑いの余地はない。モスはイースターの日曜日、ロンドン・メイフェアにある自宅で亡くなった。御年90、彼の傍らには奥様のスージー、レディ・モスが付き添っていた。
自動車と恋に落ちた英国少年
スターリングはモータースポーツ一家に生まれた。父親のアルフレッドは裕福な歯科医であり、才能あふれるアマチュアレーサーであった。1924年のインディアナポリス 500では16位という記録を残している。母親のアイリーンもまた同じ時期にヒルクライムレースにたびたび参戦していた。
スターリングと妹のパットは乗馬の世界で優れた才能を開花させていたが、少年は自動車に恋をした。17歳になると、こっそり自分でMGを注文して父親のサインも代筆した。アルフレッドは当初そのことを喜んでいなかったが、彼のレースに対する情熱がいかほどのものかを知り協力することに決めた。そして自分のBMW製スポーツカーでレースすることを許可したのである。
パットもまたその道に続いたが、兄とは違うラリーを選んだ。フランスのミシェル・ムートンが登場するまで、彼女はラリーフィールドで最も成功した女性ドライバーであった。
エンツォ・フェラーリが目をつけた才能
1950年代初めになると、モスはいよいよ頭角を現した。1951年のスイスGPでアルタ/HWMのマシンに乗ってフォーミュラ1デビューを飾った。さらに、フォーミュラ2の戦績にエンツォ・フェラーリが関心を寄せ、同年9月にバーリで行われるF1グランプリのノンタイトル戦に自社のシングルシーターで出場しないかと持ちかけた。
しかしモスがどうにかこうにかイタリアのプーリアに辿り着いたとき、彼のマシンがすでにピエロ・タルフィに託されていることを知る。21歳の英国青年は激怒し、二度とスクーデリアのために運転はしないと誓って家に帰っていった。彼が携わったチームはメルセデス、マセラティ、ヴァンウォール、BRM、クーパー、そしてロータスである。
ドライバーに対する優れた観察眼をもっていたエンツォ・フェラーリは、モスの才能にいち早く目を着けた。エンツォは自著『piloti, che gente・・・』の中で、モスについてこう書いている。
「モスについて抱いている私の意見は非常にシンプルだ。彼は私が常々考えるヌヴォラーリクラスの人物である。スピードに対する情熱をもち、どのようなマシンでも速く走らせることができ、いかなるコースでもタイムを読むだけでマシンをジャッジすることができる」
「かつて私が言ったように、モスにはクラッシュを感知する不思議な才能が備わっている。彼がコースを外れてしまったときには、ヌヴォラーリが幾度か見せた有名なシーンのように、不気味なくらい似た方法で無傷のまま復帰してみせた。もしもモスが心でなく頭で判断していたら、ワールドタイトルを勝ち得ていただろうし、彼は十分それに値する人物だった」
ファンジオとホーソーンに阻まれた冠
モスは最高のドライバーでありながら、フォーミュラ1の世界チャンピオンに一度も輝いたことのない“無冠の帝王”としばしば称されている。1955年、1956年、1957年はファン・マヌエル・ファンジオに、1958年には同じ英国人ドライバーにしてフェラーリチームのマイク・ホーソーンに1位を譲った。加えて3度、3位を記録している。
キャリア終盤では、プライベーターのロブ・ウォーカー・レーシングチームでロータスを駆った。散発的にではあるものの、同チームのもとフェラーリでも数回レースに出場している。
250GT SWBで見せた快進撃
1957年、モスはバハマで行われたナッソー トロフィーにスクーデリア テンプル ビュエルから参戦。290MMで勝利を収めた。そして1958年にルイジ・キネッティがエントリーした335SでキューバGPを制している。1960年には250GT SWBでグッドウッドのツーリスト トロフィ、ブランズハッチのレデックス トロフィー、ナッソー ツーリスト トロフィーで1位に輝いた。
1961年にもブリティッシュ エンパイア トロフィー、ペコ トロフィー、ナッソー ツーリスト トロフィー、グッドウッドのツーリスト トロフィーで優勝。フェラーリを駆っての勝利、そしてロブ・ウォーカーとエンツォ・フェラーリとの関係性もあり、ついに1962年、ウォーカーチームのもとでモスにフェラーリのF1シートを供する動きが加速した。その年、モスのスポーツカーレースのシーズンは好調な幕開けを見せている。ブランズハッチのバンク ホリデイ トロフィーの勝利、デイトナ3時間のクラス優勝を250GT SWBで獲得していた。
しかし、グッドウッドのグローバー トロフィーでロータスを運転していたモスは大クラッシュで負傷。ついぞフェラーリのF1マシンで戦う姿を見ることはできなかった。グッドウッドの事故では昏睡状態に陥るほどの重傷を負ったが無事生還。1963年初のテストには参加したものの、現役引退を決意した。
マラネロで蘇った往年のワンシーン
モスは英国の有名人であり、そのパーソナリティは皆の知るところである。テレビや映画、レース解説などで長年活躍。勝利に対する渇望は留まるところを知らず、どんなことをしても勝つという姿勢を持っていたモスは、1992年まで英国で最も成功したドライバーであった。
2000年にナイトの称号を与えられたモスは、その数年後にマラネロへやってきた。250GT SWBのコクピットに収まり、かつての日々を観客の脳裏へ鮮やかに蘇らせた。モスが去り、モーターレーシングの世界は真の伝説をひとり失った。スターリング、どうか安らかに。貴方とのサーキットでの戦いのすべてに感謝を捧げる。
舞台に上がらなかったブリティッシュグリーンの250GT SWB
最後にフェラーリの副会長、ピエロ・フェラーリのコメントを紹介したい。
「スターリング・モスはモータースポーツの象徴でした。彼はレース史に忘れることのできない痕跡を刻みつけたのです。フォーミュラ1からスポーツカー耐久レースまで、あらゆるカテゴリーで活躍した万能選手でもありました。ロードレースでも素晴らしい能力を発揮し、ミッレミリアでも新記録を樹立しています。F1の世界チャンピオンにはなれずとも、まさしく彼は伝説的なドライバーであり、F1であろうと他のレースであろうと、フェラーリにとってものすごく恐ろしいライバルでした」
「1962年の4月のグッドウッドでアクシデントが襲ったとき、フェラーリと彼の道は一本になろうとしていました。しかしその事故の結果、彼は高い実力を有したままレーシングキャリアに幕を引いた。あのとき、マラネロではブリティッシュレーシンググリーンをまとった彼のための250GT SWBを準備していました。我々のために運転してくれるという契約のもとに。しかし運命は違う道を指し示したのです。父は、スターリングがタツィオ・ヌヴォラーリを思い出させると言っていました。いかなるマシンであってもレースをすることをこよなく愛し、キャリアの最後までその情熱をまったく失わなかったのですから」
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