ドイツ車とは異なる価値観
第二次世界大戦以前、フランスの企業は世界最高級の自動車を数多く生産していた。
【画像】一度ハマったら抜け出せない、奥深いフランス車の魅力【シトロエンC6、プジョー604、ルノー16を詳しく見る】 全51枚
ブガッティ、ドラージュ、ドライエ、サルムソンなどの名門メーカーは、フランス国内だけでなく海外でも栄華を誇っていた。しかし、戦後は高級セダンで利益を上げることが非常に困難になった。
ガソリンが配給制となり、フランス経済は低迷し、政府は「非必需品」と分類した商品に重い税金を課し始めた。高級車が再び日の目を見たのは1960年代に入ってからた。
今回は、1960年代から2020年代までにフランスの自動車メーカーが生産した高級車を、失敗作や傑作も含めて19台紹介する。
ルノー・ランブラー(1962年)
1950年代の大半においてルノーのラインナップの頂点に君臨していたのは、フレガートだった。ポントン型のデザインにより、主要なライバルの1つであるシトロエン・トラクシオン・アヴァンよりも格段にモダンな外観となっていた。しかし、1955年のパリ・モーターショーで前衛的なDSがデビューすると、状況は一変した。
ルノーは反撃を余儀なくされた。ゼロから高級セダンを開発するのではなく、アメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)と契約を結び、『ランブラー』を欧州で生産・販売することにした。ルノーはランブラーの部品を受け取り、ベルギーのハーレンで組み立てた。欧州仕様車には、最高出力130psを発生する3.2L直列6気筒エンジンが搭載された。
しかし、ランブラーは購入、登録、維持にかかる費用が高すぎるため、フランスでも販売が振るわなかった。また、今にして思えば、そのあからさまにアメリカンなデザインも消費者に好まれなかったのだろう。シャルル・ド・ゴール大統領は、公用車として装甲仕様のランブラーを導入することを拒否したと伝えられている。
ルノー16(1965年)
ルノーは、ランブラーの失敗をすぐに悟った。そこで、才能あるデザイナー、ガストン・ジュシェ氏に、欧州の消費者に受け入れられる新しい高級車のデザインを依頼した。ジュシェ氏は3ボックスのシルエットを捨て、フラットなトランクリッドではなく実用的なハッチを備えた2ボックスのスタイルとした。そして、ルノーの3、4、エスタフェットで既に採用実績のある革新的な前輪駆動方式を採用した。
1960年代初頭に実験的なクーペとセダンのバリエーションが作られたが、量産化には至らなかった。しかし、『16』のハッチバックはオートマチック・トランスミッション、燃料噴射装置、パワーロック、パワーウィンドウなどの豪華装備を揃え、1965年に発売。1967年にランブラーが生産終了となった後、ルノーのラインナップの頂点に君臨した。
ルノーは16の後継車として20を投入し、さらに30を上位モデルとして位置付ける計画だった。両モデルは1975年にデビューしたが、16は1980年まで販売が続いた。総生産台数は180万台を超え、米国を含む数十か国で販売された。
モニカ560(1972年)
ファセル・ヴェガが消滅してから数年後の1960年代後半、フランスの実業家ジャン・タステヴァン氏は、ジャガー、マセラティ、メルセデス・ベンツを凌ぐ超高級セダンを製作するという大事業に着手した。元F1ドライバーのクリス・ローレンス氏が設計を手伝い、タステヴァン氏の妻モニークにちなんで『モニカ』と命名し、エンジン排気量から『560』を付け加えた。
モニカ560は 1972年のパリ・モーターショーで初めて公開され、1年後に量産バージョンがデビューした。初期の試作車は、大きくなったパナールCDのような外観で、テッド・マーティン氏が設計したV8エンジンを搭載していた。量産バージョンでは、現代的なウェッジシェイプのボディと、クライスラー製の5.6L V8エンジンを採用した。
560は、シトロエンSMと同様、生まれる時代を誤ったクルマだった。1973年の石油危機により、大型で経済性の悪いセダンの需要は急落。また、フランス政府は厳しい速度制限を発表・施行し、高性能車の購入意欲を削いだ。それにもかかわらず、タステヴァン氏はプロジェクトを推進し、560の価格をロールス・ロイス・シルバーシャドウと同じレベルに設定。生産は1974年に始まり、1年後に終了した。ほとんどの専門家は、生産された標準モデルは17台以下だと考えているが、実際の数はもっと少ないという意見もある。
シトロエンSMオペラ(1972年)
フランスの超高級車セグメントを復活させようと試みた野心的な企業は、モニカだけではなかった。コーチビルダーのアンリ・シャプロン氏は、シトロエンSMをベースにした2台のオープントップリムジンをフランス政府向けに製作した後、ルーフを閉じた4ドアモデルの開発を進めた。そして、『SMオペラ』と名付けたモデルを1972年のパリ・モーターショーで発表する。
SMオペラは、わずか8台しか販売されず、シトロエンSMと同時期の1975年に生産を終えた。ここで紹介されている個体は、2009年のオークションで約20万ユーロ(約3300万円)で落札されたものだ。
シトロエンCX(1974年)
シトロエンDSの生産が20周年を迎える直前、新型の『CX』が発売された。当初は、最高出力160psの3ローターのヴァンケルエンジンを主力ユニットとして採用する予定だったが、燃費と信頼性の問題から最終段階で計画変更。シトロエンは複数のV6エンジン(SMに搭載されたものや、後にプジョー・ルノー・ボルボが開発したものなど)を採用できる状況だったが、CXのエンジンルームには搭載スペースが足りなかった。
それにもかかわらず、CXは長く輝かしいキャリアを築いた。広々としたステーションワゴン、後部ドアパネルにシガーライターが装備されたロングホイールベースのリムジン、そして驚くほどスポーティなGTiバージョンなど、いくつかのバリエーションが生まれた。1980年代、中国当局はCXの購入をほぼ確定していたが、油圧式サスペンションを検証した結果、採用を見送ったと伝えられている。代わりに採用されたのは、フォルクスワーゲン・サンタナだった。
ルノー30(1975年)
1970年代初頭、宿敵同士であるルノーとプジョー、そしてボルボは、V8エンジンを開発するという予想外の提携を結んだ。1973年、第一次石油危機の後、この3社(PRV)は賢明にも、8気筒エンジン搭載車の導入は財政破綻につながるという判断を下し、2気筒を減らしてV6エンジンに切り替えた。
ルノー30は1975年のデビュー時に、PRVエンジンを導入した。当時の試乗記では過度な燃費の悪さが批判されたが、ハンドリングと快適性は評価された。外観では、4気筒エンジンを搭載した20と異なり、2灯の長方形ヘッドライトではなく4灯の丸型ヘッドライトが特徴的だった。しかし、ルノー30の販売は期待したほど伸びず、その原因の一部はデザインにあると指摘された。1982年にターボディーゼルエンジンを導入したが、翌年に生産終了となった。
プジョー604(1975年)
プジョーは1935年の601の生産終了以来、高級セダンから離れていたが、『604』の発売により復帰した。ルノー30とV6エンジンを共有しており、両社は暗黙の了解で互いのテリトリーを侵さないようにしていたと内部関係者は語る。ガストン・ジュシェ氏はルノー30に大型ハッチを備えた2ボックスシルエットを採用。ピニンファリーナは604に角張った3ボックスボディを与え、メルセデス・ベンツからの乗り換えを狙った。
604は、何よりも快適性を重視していた。オプションとして、エアコン、オートマチック・トランスミッション、レザーシートなども用意された。しかし、604の販売は低迷し、1985年11月に生産中止となったが、ディーラーでは1987年7月まで新車在庫を売り切ることができなかった。
タルボ・タゴーラ(1980年)
1976年、クライスラーは傘下のルーツ社に欧州市場向けの上位セダンの開発を命じた。設計要件は伝統的な3ボックスデザインで、直列6気筒エンジンを収めるのに十分なエンジンルームを備えることだった。社内では『C9』というコードネームで呼ばれ、開発がすすめられたが、量産化の直前にクライスラーが破綻の兆候を示し始めた。そのため、同社は欧州事業の売却を決断する。
フランス政府はシムカと数千人の雇用を守るため、プジョーに買収を迫った。プジョーは1978年に買収を完了。これはシトロエンを同様の条件で不本意ながら吸収してから2年後のことだった。プジョーはすぐにタルボ(またはタルボット)の名称を復活させ、シムカに代わるブランドとした。しかし、幹部たちは604と競合する可能性を懸念し、開発途中のC9をどう処理するか決めあぐねていた。とはいえ、プロジェクトは完成間近だったため、『タゴーラ』として量産化を決定。エンジニアたちはスケールメリットを享受するため、505のドライブトレインを採用した。
プジョーのディーラーはタルボのモデルを販売する意欲がほとんどなく、消費者もタルボが何なのかよく知らなかった。タゴーラの年間生産台数は1982年に2624台まで落ち込み、1983年に生産が中止された。
ルノー25(1983年)
ルノーは、新型『25』をトップクラスの高級車セグメントに位置づけていた。604とCXは旧式化が進んでおり、ドイツ車も手が届くところまで来ていた。これはルノーにとって、輝かしい成果を上げるチャンスだった。このプロジェクトに携わったデザイナーとエンジニアたちは、競合車と同等以上の走行性能を備えた、モダンで安全なクルマを開発するために、十分な予算を割り当てられた。
書類の上では、すべてが順調に進んでいた。しかし実際には、コスト削減策により信頼性の問題が発生し、初期のモデルには多くの不具合が見られた。ルノーの社長、レイモンド・レヴィ氏ですら、自身の所有する25が毎月のように故障していることを公に明かすという状態だった。1988年に外観とメカニカルの改良が行われたことで、25はなんとか持ちこたえた。
プジョー605(1989年)
『605』は、プジョーの電子化の先駆けであった。アウディ、BMW、メルセデス・ベンツなどのドイツブランドと真剣に競争する同社にとって、これは高コストながらも不可欠なことだった。プジョーは当初、605に4気筒および6気筒ガソリンエンジンを用意した。当時の自動車評論家たちは、そのハンドリング、快適性、豪華なインテリアを絶賛した。購入者も同様だったが、不具合が目立ち始めると、その魅力はすぐに損なわれた。大急ぎで市場投入された605は、数多くの電気系統の問題に見舞われ、初期のモデルは頻繁に修理工場に持ち込まれる事態となった。
プジョーは何度かリコールを実施し、1993年モデルで問題を修正したが、その損害は甚大だった。信頼性の低さは、605の評判を大きく落としてしまった。当初の予測では、10年間で50万台販売できるとされていた。しかし、実際の生産台数は約25万台にとどまり、1999年に幕を閉じた。
シトロエンXM(1989年)
シトロエンのフラッグシップセダンは、滅多に出てこない。CXがデビューしてから15年後の1989年、シトロエンはまったく新しい『XM』を発売した。ベルトーネがデザインし、当時の欧州で最も未来的な外観を持つモデルの1つとなった。そこに、シトロエンの新しいハイドロニューマチックサスペンションが採用され、リアハッチを開けたときに乗員を風雨から保護するための13枚目の窓も装備された。XMは1990年、メルセデス・ベンツSLとフォード・フィエスタを抑えて、欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
XMは、プジョー605と多くの部品を共有しており、同じ電気系統の不具合にも悩まされていた。生産工程でコスト削減を試みた結果、部品に不具合が発生し、初期モデルのオーナーは、サスペンションがスポーツモードから動かなくなる、エアコンが作動しない、ワイパーモーターが故障する、テールライトが点灯しないなどの数々の問題に見舞われた。
シトロエンは1993年からXMの信頼性を大幅に改善し、初期の車両を無料で修理するといった対応をとったが、悪評からの回復に苦戦した。それでも、2000年まで生産は続いた。
ルノー・サフラン(1992年)
ルノーが1980年代末までに25の後継車を投入するという噂が、プジョーとシトロエンを駆り立て、605とXMの市場投入を急がせた……と言われている。しかし噂は誤りで、サフランは1992年にデビューした。内外装ともに先代モデルとのつながりをほとんど断ち切ったデザインだった。
ライバル各社と同様、ルノーもドイツ勢のテリトリーに進出しようと考えていた。そのために、3.0LのツインターボV6エンジンを搭載した最上位モデル『ビターボ』を発売。最高出力262ps、5速マニュアル・トランスミッション、四輪駆動という装いであった。
ルノーは約800台を販売した後、1996年にビターボの生産を終了した。サフランは2002年まで同社のラインナップの頂点に君臨した。
プジョー607(1999年)
プジョーは605のプラットフォームの改良版で『607』を開発した。1999年に発売されたが、プロトタイプを試乗したフランスのジャーナリストたちがそのハンドリングを「壊滅的」と評し、悲惨なスタートを切った。片輪でコーンを周る607の写真が、欧州各地の雑誌の表紙を飾った。大至急、サスペンションとタイヤの改良が行われ、なんとか危機を脱した。
607は、2000年から2010年にかけて16万8875台生産された。605(約25万台)ほどは売れなかったが、シトロエンC6やルノー・ヴェルサティスよりもはるかに良い成績を残した。
ルノー・アヴァンタイム(2001年)
ルノーは、1999 年のジュネーブ・モーターショーで、クラスの概念を覆すコンセプトカー『アヴァンタイム』を発表し、世間を驚かせた。これは4代目エスパスを予告するものだろう、と推測する人もいた。その推測はある意味当たっているが、1999年のフランクフルト・モーターショーでついに量産バージョンがデビューした。
意見が分かれるデザインは、他の高級クーペから一線を画すためのものであった。アウトバーンを疾走するクルマではなく、都市部の環状道路をクルーズするクルマだった。ルノーはマトラに2000年初頭の生産開始を依頼したが、開発過程で浮上した問題の解決のため、発売は何度も延期された。特に、ドアの長さが140cm、重量が50kgを超えるため、ダブルヒンジが必要だった。
発売が遅れ、高価で、製造品質も粗削りだったアヴァンタイムは、販売につまずき、立ち直ることができなかった。発売からわずか16か月、2003年初めにアヴァンタイムの生産が終了。生産台数は8557台であった。マトラは、その後まもなく工場を閉鎖、2500人の従業員を解雇し、以来、乗用車の生産から手を引いている。アヴァンタイムはスタートから転けてしまい、そのまま起き上がることなく幕を閉じたが、今日のコレクターズカーの世界では一定の地位を確立している。
ルノー・ヴェルサティス((2002年)
『ヴェルサティス』は、従来の高級セダンとは異なるコンセプトを持つクルマだった。確かにセダンには見えない。高い車高と、まるでミニバンのようなシルエットを採用し、当時道路を走る他のクルマとは全く異なるデザインだった。
ルノーは当初、ヴェルサティスの約2年前にアヴァンタイムを発売する予定だったが、前述のように延期された。そのため、2台はほぼ同時に登場することになる。ディーラーを訪れた購入希望者は、どちらがルノーの真のフラッグシップモデルなのか理解できなかった。ルノーは、このクラスのクルマで受け入れられるデザインの「大胆さ」のレベルを完全に過大評価していた。
ヴェルサティスは6万2000台強が販売された後、2009年に生産終了となった。これに対し、サフランは31万台も売れている(販売期間は1年だけ長い)。
シトロエンC6(2005年)
XMは後継車の発表もないままに生産終了した。シトロエンは高級車クラスから撤退したとの懸念が広がる中、2005年のジュネーブ・モーターショーで『C6』がデビューする。1999年に発表された衝撃的なコンセプトカー『C6リナージュ』から多くのデザイン要素を引き継ぎ、かつてのCXを彷彿とさせる流線型のボディと凹型のリアウィンドウを採用した。インテリアは、ヘッドアップディスプレイや車線逸脱警報システムなどのハイテク装備を揃えた豪華な仕上がりであった。
シトロエンは、C6の年間販売台数の目標を約3万台としていた。もし、この目標を達成すれば、販売台数はXMとほぼ同水準となるはずだった。しかし、実際には2007年の7600台がピークで、2012年までの総販売台数は2万3500台を下回った。C6もまた、後継車の発表もなく廃止された。
シトロエンDS 5(2011年)
シトロエンは2005年のフランクフルト・モーターショーで『Cスポーツラウンジ』というコンセプトカーを発表した。長い時間を経て、デザインは進化していったが、量産バージョンでも全体のプロポーションはほぼ同じだった。『DS 5』はC6の生産終了後、シトロエンのフラッグシップモデルとなった。プラットフォームはプジョーの3008や5008と共有していたため、V6エンジンを搭載することはできなかった。代わりに、最高出力200psのディーゼルハイブリッドをラインナップに加えた。
やがて、DSが独立ブランドとなった2015年にシトロエンのエンブレムを返上した。新しい名称とともに、グリルなどの外観も若干変更された。DS 5は快適で実用的なクルマだったが、ライバルの高級車に勝つことはできなかった。生産は2018年5月に終了した。
ルノー・ラティチュード(2010年)
『ラティチュード』は、かつてランブラーを生み出したものと同じ、疑わしい発想から生まれたクルマだ。自動車産業に短期間参入していた韓国のパートナー企業、サムスンが生産するSM5に、ルノーのエンブレムを付けたのだ。ラティチュードは、精彩を欠いたデザインと魅力のないインテリアで、欧州市場ではまったく受け入れられず、消費者を引き付けることはできなかった。
ルノーは2015年にラティテュードの販売を終了したが、誰もそのことに気付かなかったかもしれない。
シトロエンC6(2016年)
『C6』の車名は、2016年に中国で復活した。シトロエンのこれまでのフラッグシップモデルは、際立ったスタイルが大きな魅力だったが、このC6は、フロントエンドを除き、プジョー、ヴォグゾール、ヒョンデなど、他のブランドと間違えてしまうような、個性のないデザインになっている。
それもそのはず。C6はシトロエンが設計したものではなく、東風汽車のA9のリバッジモデルだからだ。
写真のライセンス:https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.en
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そしてパリ郊外ポワシーにはフォードから引き継いだシムカの工場があって、フォード時代に開発されたフルサイズセダンを生産していた。ベースモデルのアリアーヌは4気筒エンジンだったが、豪華版のシャンボールはV8を積み、わざわざトランク後端にスペアタイヤを背負った最上級版のプレジデンスも存在した。プレジデンスのオープンカー仕様は時のド・ゴール大統領の公用車としても使われた。
が、フランスにそういう「普通の」豪華車、高級車が存在したというオートカーにとって不都合な事実は、積極的に無視されている。ド・ゴールの公用車にしても、シトロエンDSのアンリ・シャプラン製リムジンにのみスポットが当てられて、「変態ごっこ」に興ずる人々を安堵させるのだった。