車の歴史 [2026.05.09 UP]
夢のチカラで走り続ける、世界を驚かせてきたホンダの歴史
文●山田弘樹 写真●ホンダ
《電動ホットハッチの実力拝見!》ホンダ・スーパーワン先取り試乗
創意工夫で庶民の心を掴んだ1948年の創業から、独創的な技術とチャレンジングスピリッツで時代に合わせて進化を遂げてきたホンダ。その歴史と印象的なクルマを自動車ジャーナリストの山田弘樹さんが解説します。
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黎明期:「ポンポン」から世界へ
1946年、静岡県浜松市に「本田技術研究所」を設立して始まったホンダの歴史。その出発は自動車メーカーではなく、新興のバイクメーカーでした。
創始者である本田宗一郎氏は、旧陸軍の無線機用発電エンジンを改良し、これを自転車に搭載して「ホンダ A型」として発売。空冷エンジンが放つそのサウンドから「ポンポン」という愛称で親しまれ、これが庶民の足としてヒット作となりました。
ホンダ ドリームD型(1949年)
そしてこの2年後には、現在の社名となる「ホンダ技研工業」(以下ホンダ)へと法人化。さらに翌年はエンジンのみならず車体から全てを自社設計とした「ホンダ ドリーム D型」を発売しました。そう、このホンダ ドリームの名前こそ、現在ホンダが掲げるスローガン“The Power of Dreams How we move you.” 「夢のチカラで、あなたを動かす」へとつながる、はじめの一歩になったのです。
小さな街のバイクメーカーだった頃から、本田宗一郎は世界を目指していました。
国内でのバイクレースで活躍したホンダは、1959年になるとイギリス「マン島TTレース」に出場。初出場ながら出走した4台全てが6位、7位、8位、11位で完走を果たし、1961年には125cc/250ccの両クラスで優勝。5位までを独占しました。
また1961年のロードレース世界選手権(WGP)では、第2戦で故・高橋国光氏が日本人として初めて世界選手権で優勝。さらに同年のWGPでは250ccクラスと125ccクラスを制し、バイクメーカーとしての名声を確かなものに。
そして1963年には軽トラック「T360」と、その対極といえるスポーツカー「S500」を発売し、自動車メーカーとしての産声を上げたのでした。
ホンダ S500(1963年)
驚くべきはそのわずか1年後となる1964年に、世界最高峰の舞台である「F1」へ参戦を発表。8月2日に開催された第6戦、ドイツGPに「RA271」をデビューさせました。
当初こそ信頼性などで苦戦しましたが、自社製となる1.5リッターV型12気筒エンジンが見せつけたスピードは、ヨーロッパの強豪たちに強い衝撃を与えたといわれています。
そしてわずか1年後の1965年、最終戦となるメキシコGPで「RA272」が初優勝(ドライバーはリッチー ギンザー選手)。創立からわずかに16年という歳月で、2輪/4輪における世界最高峰の舞台を制したのです。
「実現不可能」な規制を技術力で打ち破る
モータースポーツの舞台で活躍したホンダは、1970年代に入ると市販車でも技術力の高さを世界に示します。当時アメリカでは「マスキー法」と呼ばれる厳しい排気ガス規制が成立し、世界の大手自動車メーカーたちがこれをクリアすることは不可能だとしていました。
しかし1972年、ホンダは「CVCC」と呼ばれる複合渦流調整燃焼方式を開発。副燃焼室で着火させた火だねを主燃焼室に送り、リーン着火させるなどして、触媒なしでも出力が出せる低公害エンジンを作り上げました。
ホンダ シビック(1972年)
そして世界で初めてマスキー法をクリアしたエンジンとして、初代「シビック」に搭載されました。
さらに1976年になると、ひとつ上のセグメントとなる「アコード」を発売し、北米市場で爆発的なヒットを記録。1982年には日本の自動車メーカーとしては初めてアメリカのオハイオ州に工場を作り、現地生産をも開始したのでした。
ホンダ アコード(1976年)
VTECからNSX誕生まで、バブル経済での活躍
1980年代後半から90年代にかけてホンダは、技術的な絶頂期を迎えます。
その代名詞と言えるのは、「VTEC」エンジンでした。吸気バルブのタイミングと、そのリフト量を可変させるこの機構は、低燃費と高出力を両立。二代目となるDA6型インテグラに搭載された「B16A」型エンジンは、自然吸気エンジンながら1.6リッターの排気量から160馬力を発生。その後もEG6型シビック、EF8型CR-X、EG2型CR-X デルソルへと受け継がれ、次世代の扉を開けたのでした。
ホンダ インテグラ(1989年)
そのひとつの集大成と言えるのが、排気量を3リッター(後期型では3.2リッター)へと拡大し、V6エンジンへとスケールアップしたNSXの存在でしょう。
当初はアフォータブルなスポーツカーを目指し、4気筒エンジンを搭載するアイデアもあったNSX。しかし開発が進むなか、その方向性はプレミアム路線へとシフトしました。
ホンダ NSX(1990年)
ホンダ唯一のV6エンジン搭載車であるレジェンドから「C27A」型ユニットを譲り受け、さらにこれをVTEC化するために、ヘッドを完全新設計。当時としては異例なチタン製コンロッドを用いて8000回転のレブリミットを実現し、「C30A」型ユニットを開発。6速MTモデルでは当時の自主規制いっぱいとなる、280PS/7300rpmを発揮したのでした。
そしてこの3リッターV6エンジンを、オールアルミ製ボディにミッドシップ。それまで乗り手を選ぶ乗り物だったスーパーカーに、乗りやすさと信頼性という、現代の先駆けとなる価値観を提案しました。
折しもこのときホンダはF1においても、第2期と呼ばれる黄金時代を迎えていました。
スピリット・レーシングへのエンジン供給から始まりウイリアムズ、そしてマクラーレンへエンジンを供給し、1988年にはマクラーレン・ホンダが16戦15勝。89年にターボが禁止されてからもその強さは揺るがず、89年はアラン・プロスト、90年/91年はアイルトン・セナがタイトルを獲得。NSXの開発にセナが助言していた動画は今も語り継がれています。
バブル経済の崩壊~ミニバンの台頭
しかし1990年代に入ると、ホンダには大きな危機が訪れました。
世の中は「RV」(レクリーエーショナル・ビークル)へと流行が転じていた一方、利潤の大きな市販車がセダンに偏っていたホンダは、販売面で大きく後れを取ったのです。
これを救ったのは、「オデッセイ」でした。アコードのプラットフォームを流用した低重心なボディは「走れるミニバン」として一世を風靡しました。
ホンダ オデッセイ(1994年)
さらにホンダは「ステップワゴン」でファミリー層の、「CR-V」で若者たちのハートをつかみ、傾いていた経営を回復。そして1995年にはインテグラに「Type R」をラインナップして、現代へと続くタイプRシリーズを構築。再び若者達に、手が届く走りの楽しさを提供ました。
ホンダ インサイト(1999年)
その一方で1999年には初代「インサイト」を発表して、トヨタ プリウスに挑戦。世界最高燃費を掲げながら、後に続くホンダ独自のハイブリッドシステム、「IMA」(インテグレーテッド・モーターアシスト)の礎を築いたのでした。
また2000年には、ホンダ製スポーツカーの源流である「S2000」を発売しました。
二度目の救世主となったN-BOX
バブル経済が終わり、日本の経済状況が低迷を極めていた2000年初頭。
世の中は軽自動車がシェアを拡大していましたが、ホンダはこれに答える市販車を持っていませんでした。
ホンダ N-BOX(2011年)
そこに登場した、二度目の救世主が「N-BOX」でした。フィット譲りのセンタータンクレイアウトを軽自動車に採用し、後席を倒せばそのまま自転車が積めるほど高い「スーパーハイトワゴン」を実現。これを高いスタビリティで走らせたN-BOXのクオリティは、軽自動車の価値観を塗り替えて大ヒットとなったのはご存じの通りです。
そしてこの開発責任者となったのは、F1へ携わり、オデッセイの開発にも加わった浅木泰昭氏でした。
このN-BOXを皮切りに、N-WGNやN-ONE、そしてN-VANといった「Nシリーズ」が充実。直近では走りを楽しむピュアEV「スーパーワン」が登場しました。
ホンダ スーパーワン(2026年)
またハイブリッドエンジンは「iーDCD」、「i-MMD」、「SH-AWD」と3種類をラインナップし、最終的には「iーMMD」を選択。それを発展させたホンダ「e:HEV」として、電動化への架け橋としました。
いっぽうモータースポーツでは、2015年からハイブリッドターボ規定となったF1に第4期として参戦。当初はマクラーレンホンダとして苦渋を味わいながら、2018年にトロ・ロッソ(現レーシングブルズ)、そして2019年にはそのシニアチームとなるレッドブルにエンジンを供給し、2021年に王座奪還(ドライバーズタイトル)。ホンダとしての参戦は惜しまれつつ終了しましたが、翌年からはHRC(株式会社ホンダ・レーシング)を通じて技術サポートを行い、2022年の完全勝利に貢献しています。
そして未来へ
そして2021年、ホンダは世界を驚かせる「脱エンジン」宣言を発表。それは「2040年までにEV・FCEV 100%」というロードマップの提示でした。
この背景には、カーボンニュートラル化が進む世界の潮流に対して、乗り遅れず生き残り、時代をリードしたいという意図がくみ取れます。しかしおよそ80年の月日が示す通り、ホンダの歴史は「エンジンの歴史」でもありました。よってこれを聞いた人々は、とても大きなショックを受けたのでした。
様々な賛否両論が飛び交うなかでもホンダは、まずサルーンとスペース ハブ(ミニバンタイプのEV)の2ラインナップで「ホンダ 0シリーズ」を発表。2040年に向けたEV化の姿勢を示しました。
さらにはソニーと「ソニー・ホンダモビリティ」を協業し、セダンタイプのピュアEV「AFEELA」(アフィーラ)を発表。エンターテイメントを通じてEVの価値を再定義するなど、積極的に次世代への提案を続けます。
しかし世の中では、これと逆行するかのような現象が起きていました。
それまで100%EV化を宣言していたメルセデスやフォルクスワーゲングループが、開発費の高騰やインフラの不足、市場の冷え込みを理由に前言を相次いで撤回。ガソリン車およびハイブリッド車の販売を継続する姿勢を示したのです。
そしてホンダも、同様の理由から「0シリーズ」と「アフィーラ」の開発を中止。関連損失2.5兆円という、未曾有の痛手と共に損切りを果たしたのでした。
2021年に三部社長が発表したEV化へのフルコミット宣言は、少し早すぎる決断だったのではなかったのか? カーボンニュートラルを目指すにしても、あらゆる手段を使って段階的にゴールを目指す、トヨタの「マルチパスウェイ」の方が自然なのは、理解できていたはずだーーーーー。
ホンダが極端な政策を採った真意は、明らかではありません。トヨタほど世界中にシェアを持たないホンダにとっては、北米と中国でのニーズや、投資家への姿勢を示す必要もあったのでしょう。
ホンダは、継続することが苦手なメーカーです。
F1は2026年からアストンマーチンとワークス体制を敷いて第5期に突入し、撤退からの出戻りで開発に出遅れている状況です。
スポーツカーではNSXを2代限りで終わらせ、S2000も継続しませんでした。
EVでは0シリーズやアフィーラの前に、「ホンダe」の生産も終了しています。
常に高く険しい山に挑戦し、結果を出すことが多い一方で、継続的な視野に立てないのは、技術屋集団でありエポックメーカーとしての性分です。しかし、だからこそ337万台規模を誇るメーカーながら、常に尖った姿勢を貫けるのだと思います。
確かにEVフルコミット宣言は大胆過ぎましたが、「オデッセイ」や「N-BOX」に次ぐ救世主を生み出すことで、再びその勢いを取り戻してくれるはず。
レースでは勝利を目指し、市販車では時代を作り出す1台を生み出すことで、自分たちの進む道をも切り開いて行く。その姿勢こそがホンダという会社のスタイルなのだと思います。
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みんなのコメント
過去を乗り越えられなかったから今現在のホンダがあるわけで。