四輪進出にあたってホンダがまず試作したのは、空冷60度V4エンジンを積む前輪駆動の軽自動車だったという。直4空冷モデルや水平対向エンジン車などもテストされたが、開発のターゲットは次第に営業サイドが要求する軽トラックと、他社がやらない高性能の2座スポーツに絞られていく。特振法により四輪進出を急がざるをえなくなったホンダは、精密さが要求される二輪車生産技術を活かし、開発期間の短縮と既存車を大きく超える高性能を両立。こうしてSシリーズは誕生した。
【写真 21枚】「めちゃくちゃレアだな…」超希少ホンダS500とその後継モデルの写真ギャラリー
●文:横田 晃
―― S600(1964年3月~) S500の低速トルクの細さ、スタート時の繊細さを解消するために排気量をアップ。リッター当たりの馬力は94PSでシリーズ最高。国内GTカーレースはもちろん、世界のサーキットでも活躍。小さなボディで大きなクルマをかもった。
―― S500(1963年) 実際にデリバリーを始めたのが1964(昭和39)年1月から。その数か月後には早くもS600に変更されるわけで、国内登録台数わずか500台程度といわれる稀少モデルとなった。
―― S500/主要諸元 ●全長×全幅×全高:3300mm×1430mm×1200mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:675kg●エンジン(AS280E):水冷直列DOHC 531cc ●最高出力:44PS/8000rpm ●最大トルク:4.6kg・m/4500rpm ●最高速度:130km/h●燃料タンク容量:25ℓ ○トランスミッション:4速MT●タイヤサイズ:5.20-13-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:45万9000円
―― ステアリングはウッドリム。盗難防止のためにハンドルロック(ロック状態ではエンジンがかけられない)も付いている。丸形のメーターは左から燃料計/電圧計、水温計、回転計、速度計。キー付きのグローブボックスは大きめで使いやすい。シートに対してハンドルは左寄りにペダル類は右寄りに配置されていた。
―― シートはS500からS800まで大きな変更はなかったが、写真の赤内装が選べたのはS600の前期型まで。ほかには黒内装が用意されていた。
―― 本田宗一郎がこだわったチェーン・ドライブによりトランクは若干広くなったが、チェーンケースによる重量増などデメリットも多かった。
―― AS280E型エンジン レース用バイクでは既に採用されていたDOHCエンジンや1気筒1キャブレター(京浜製CVタイプ)などの採用で、S500はなんと8000回転で最高出力を発生。レッドゾーンは9500回転からという既存の四輪車では考えられないスペックとなった。
自動車業界を震撼させた通産省の業界再編法案
近代日本の産業の多くは、俗に「護送船団方式」と呼ばれる国の指導下で成長してきた。銀行や保険会社の利率や商品構成が、つい最近までどこも同じだったように、国の保護のもとで突出した存在を許さず、業界全体が横並びで成長することが優先されていたのだ。
主に官僚が主導したそのシステムが、戦後の日本経済の復興を支えていたのは事実。しかし、それはときに健全な競争を阻害し、新規参入者の障壁ともなった。1961年に当時の通産省から提案された、特定産業振興臨時措置法案(特振法)は、まさにその一例だ。敗戦の痛手から立ち直った当時の日本は、海外から市場の開放を求められ、1965年には乗用車の輸入が自由化されることが決まっていた。護送船団方式で輸入台数を制限し、国内自動車産業を保護するというそれまでのやり方を、考え直す必要に迫られたのだ。
そこで官僚が考えたのが、自動車や鉄鋼、石油化学産業を特定産業に指定し、吸収合併を促して業界を再編する一方、新規参入を規制して海外企業に対する競争力をつけさせるという方針だった。その法案が国会で可決されれば、日本の自動車メーカーはトヨタと日産を中心とする大手3社程度に整理され、以後、新たな自動車メーカーは出現できなくなる。
そこに猛然と反旗を翻したのが、本田宗一郎だった。スーパーカブの世界的なヒットなどで、1950年代末にアジア最大の2輪車メーカーとなったホンダは、1957年ごろから四輪車の研究を始めている。当初本田は四輪市場参入は二輪での世界市場制覇を果たしてから、と考えていた。しかし、特振法が成立してしまうと、それが不可能になる。
そこで本田は通産省に乗り込み、「株主の言う事なら聞くが、政府の命令は聞かない」と啖呵を切る一方、法の成立前に四輪車生産販売の実績を作るために、本格的な開発を急がせた。そうして、1962年1月の開発着手からわずか半年で完成したのが、2人乗り軽スポーツカーのS360だ。開発を率いた中村良夫は、のちにホンダF1の初代監督になる人物だ。元中島飛行機のエンジニアだった彼がS360の前に試作していたのは、当時の国民車構想に準じた実用軽自動車。V4エンジンとFFを採用した、航空機エンジニアらしい合理的な企画だ。
しかし、本田は彼にスポーツカーの開発を命じ、藤澤武夫副社長は軽トラックも同時に開発すべきだと主張した。当時のホンダを支えた名物経営者ふたりの個性と炯眼がうかがえる商品企画だった。
権力から勝ち取った「赤」は自由を愛したホンダの色
S360は、一部だけが完成していた鈴鹿サーキットで1962年6月5日に開催された、ディーラー向けの総会でお披露目された。本田は前夜にようやく完成した試作車のステアリングを握り、助手席に開発責任者の中村を乗せて、ディーラー経営者たちの前に颯爽と登場したのだ。それは、ホンダの四輪への進出宣言であると同時に、それまで二輪車を販売していたディーラーの士気を高める、本田氏らしいパフォーマンスだった。
その効果を高めた真っ赤なボディカラーも、本田が官僚と戦って勝ち取った色だ。当時、日本では赤と白は消防車とパトカー、救急車にしか許されなかった。そこに本田は「国民が乗るクルマの色を規制する先進国があるか」と雑誌やテレビのインタビューで公然と発言。ついに認めさせたのだ。それから4か月後。10月に東京・晴海で開幕した第9回全日本自動車ショーには、S360とともに同じエンジンを積んだ軽トラックのT360、さらに排気量を拡大したS500が出展され、黒山の人だかりとなった。
モータリゼーション到来前の当時、スポーツカーなど庶民にはまだ夢。しかし、二輪でいち早く世界で認められたホンダの四輪車進出は、人々にまだまだ伸びゆく日本の実力を予感させた。来場者はそこに自身を重ね、遠くない未来にそれに乗る日を夢見たのだ。二輪技術を活かしたエンジンは、オールアルミ製の4気筒4キャブDOHC。手間のかかる組み立て式のクランクシャフトやニードルベアリング(ころ軸受け)などのレース技術がふんだんに使われ、8500回転以上という驚異的な高回転・高出力を誇った。そのいずれもが、本田宗一郎の肝入りによる。もっとも、やはり本田のこだわりから生まれた、リヤサスアームを兼ねた独創的なチェーン駆動には、中村は疑問を抱いていたと後年に語っている。事実、1966年には最終駆動方式は一般的なシャフト式となり、サスペンションも固定軸式に改められたが、操縦性、信頼性はともに向上している。
ちなみに、軽自動車として開発がスタートしたが、結局S360は発売されなかった。まだ日本に軽スポーツカーの市場はないと読んだ本田は、開発中に500への拡大を指示。市販後もすぐに600を経て、800まで拡大された。もともと360のエンジンを、開発陣は苦労してスープアップしたという。しかし、その苦労は報われた。Sシリーズは海外でも大きな評判を呼んだのだ。
誰もやらない方法で世界一を狙い続ける
自動車業界に激震を起こした特振法は、3度にわたって国会に提出されたものの、審議未了のまま廃案になった。一方、S500~800は狙い通り、海外では「時計のように精密」と評され、1964年から参戦したF1での活躍もあって、四輪メーカーとしてのホンダの名を世界に轟かせた。ただし、スポーツカーは四輪事業にすぐに利益をもたらすほど売れるものではない。急遽立ち上げた生産ラインも、各地の二輪車工場の片隅でエンジンなどの部品を作り、浜松工場で組み立てる非効率なもの。そこでホンダは、埼玉・狭山市に造成中だった工業団地の一角を購入。初の四輪専門工場を立ち上げると、1967年にN360のヒットで、ついに四輪メーカーとしての足場を固めた。特振法に背中を押されたホンダは、かくして見事に念願の四輪事業への参入に成功したのだ。
モータースポーツシーンでも、元気のいいDOHCエンジンを利したSの俊敏な走りは、多くの話題を呼んだ。とくに、S600の後を追うように1965年に登場したトヨタスポーツ800との好バトルは、今なお伝説だ。4気筒DOHCで高回転、高出力を誇る半面、重量がかさんだS600に対して、水冷水平対向2気筒の非力なエンジンながら、空力性能に優れ、軽量なトヨタは、それぞれの個性を活かした闘いぶりでファンを沸かせたのだ。
ただし、その後のホンダは四輪メーカーとしての地歩を確固たるものにするために、しばらくスポーツカーから離れる。CVCCエンジンのシビックやアコードをヒットさせ、世界のホンダの名を定着させた後、1984年にCR-XにSiを登場させるまで、DOHCエンジンも封印していた。
しかし、人がやらない方法で、世界の一番を目指す本田宗一郎のDNAは、今なおホンダの社風に息づいている。1990年には誰もが世界一の操縦性を楽しめるスーパースポーツ、NSXを世界に問い、翌年には、NAのSOHCながら8000回転以上回って64PSを絞り出すミッドシップ軽自動車、ビートで日本人をふたたび歓喜させた。
1999年には、やはりホンダらしい高回転の咆哮が楽しめるオープン2シーターFRスポーツ、S2000も送り出し、世界から歓迎された。それらは2015年にS660、2016年に新型NSXとしてふたたび話題を呼んでいるのはご存じの通り。さらにS2000復活の噂もある。S500に始まったホンダスポーツの系譜は、今なお終章を迎えてはいないのだ。
―― 1966年のマイナーチェンジで排気量が791ccまでスープアップされたS800。ベースエンジンが360ccだったことを考えると、開発陣の苦労は並大抵のものではなかった。
―― 791ccまで排気量アップされたAS800Eエンジン。
―― S800はボンネットにコブ(パワーバルジ)がある。これはフューエルインジェクション装着を想定してのものだったが、実現はしなかった。
―― 1966年のマイナーチェンジでフロントグリルの形状が変更された。またウインカー形状も、S500/ 600が丸型だったのに対して、S800が、楕円形ランプを採用している。
ホンダSシリーズの歴史
S360
―― S360(1962年) 全長3mという当時の軽規格に合わせているため、オーバーハングはほとんどない。S500になってこのデザインの問題は解消された。 【主要諸元】 ●全長×全幅×全高:2990mm×1295mm×1146mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:510kg●エンジン:水冷直列4気筒DOHC356cc ●最高出力:33PS/9000rpm ●最大トルク:2.7kg・m/7000rpm ●最高速度:120km/h以上
S500
―― S500(1963年~) 1962年のモーターショーに出品されたプロトタイプモデルに比べ、全長/全幅が拡大している。S360では分割式だったバンパーは一体化され、ウエストラインはドアの後ろでキックアップしている。 【主要諸元】 ●全長×全幅×全高:3300mm×1430mm×1200mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:675kg●エンジン(AS280E):水冷直列DOHC531cc ●最高出力:44PS/8000rpm ●最大トルク:4.6kg・m/4500rpm ●最高速度:130km/h●燃料タンク容量:25L●トランスミッション:4速MT●タイヤサイズ:5.20-13-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:45万9000円
S600
―― S600(1964年3月~) S500の低速トルクの細さ、スタート時の繊細さを解消するために排気量をアップ。リッター当たりの馬力は94PSでシリーズ最高。国内GTカーレースはもちろん、世界のサーキットでも活躍。小さなボディで大きなクルマをカモった。 【主要諸元】 ●全長×全幅×全高:3300mm×1430mm×1200mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:715kg●エンジン(AS285E):水冷直列DOHC 606cc ●最高出力:57PS/8500rpm●最大トルク:5.2kg・m/5500rpm ●最高速度:145km/h●燃料タンク容量:25L ●トランスミッション:4速MT●タイヤサイズ:5.20-13-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:50万9000円
S600クーペ
―― S600クーペ(1965年2月~) キャッチフレーズは「高速時代のビジネスカー」。ハッチゲートの荷室を持つ。オープンボディより重くなっているが空力的に有利で最高速度は変わらない。スチール製ルーフの採用によりボディ剛性は高くなり、レースのベースモデルとしても愛された。
―― S600クーペ(1965年2月~) 【主要諸元】 ●全長×全幅×全高:3300mm×1400mm×1195mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:734kg●エンジン(AS285E):水冷直列DOHC 606cc ●最高出力:57PS/8500rpm ●最大トルク:5.2kg・m/5500rpm ●最高速度:145km/h●燃料タンク容量:30L●トランスミッション:4速MT●タイヤサイズ:5.20-13-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:59万5000円
―― S800/S800クーペ(1966年1月~) マイナーチェンジでエンジンを拡大するとともに、チェーンドライブからシャフトドライブに変更。チェーンによるノイズは減ったが、トランクは若干狭くなった。シャフトドライブはT360のものを使ってアメリカンホンダが製作したものが元になった。 【主要諸元(AS800)】 ●全長×全幅×全高:3335mm×1400mm×1200mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:720kg●エンジン(AS800E):水冷直列DOHC 791cc ●最高出力:70PS/8000rpm ●最大トルク:6.7kg・m/6000rpm ●最高速度:160km/h●燃料タンク容量:35L●トランスミッション:4速MT●タイヤサイズ:5.60-13-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:65万3000円
―― S800クーペ
S800M
―― S800M(1968年2月~) 海外輸出に対応するため、ラジアルタイヤや国内初となるディスクブレーキ( 前輪のみ)の採用など安全装備を充実させたSシリーズの最終型。固定式だった助手席に160mmのスライド機能が加えられ、3点式シートベルトも標準装備。ステアリングギア比は17.1へ変更。 ●主要諸元(AS800) ●全長×全幅×全高:3335mm×1400mm×1215mm●ホイールベース:2000mm●車両重量:755kg●エンジン(AS800E):水冷直列DOHC791cc ●最高出力:70PS/8000rpm ●最大トルク:6.7kg・m/6000rpm ●最高速度:160km/h●燃料タンク容量:35L●トランスミッション:4 速M T●タイヤサイズ:145SR13●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:75万円
S500/S600/S800の変遷
―― 1962年 6月 建設中の鈴鹿サーキットで開かれた「第11回ホンダ会総会」で本田宗一郎が開発責任者の中村良夫を乗せ、S360を走らせる。10月 第9回全日本自動車ショーにS360とS500およびT360を展示。1963年10月 S500発売。価格は45万9000円。価格当てクイズ(価格決定のための市場調査)は全国から558万通超の応募。1964年3月 606ccエンジンを積むS600を販売開始。外観はヘッドライトカバーが外され、バンパーとラジエターグリルまわりのデザインを変更。1965年2月 S600クーペ追加。キャッチは「高速時代のビジネスカー」。ボディ剛性が高くなり、レースのベースモデルとしても使われた。1966年1月 モデルチェンジでS800に移行。最高時速160km/h、ホンダ初の100マイルカー。ボンネットにパワーバルジ、このコブはインジェクション装備を想定したものだったが、自社開発が難しくインジェクションの導入は見送られる。5月 マイナーチェンジ。チェーンドライブからシャフトドライブへ変更。トランクは若干狭くなる。1968年5月 マイナーチェンジ。米国輸出に対応すべく、フロントフェンダーのターンシグナル、ボディ四隅のマーカー、ラジアルタイヤ、前輪ディスクブレーキの採用で安全装備を充実。オートチューニングラジオやヒーターも装備。内装はセミバケットシート、3本スポークウッドステアリング、スピード/タコメーターのデザイン変更など。1970年生産終了。
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