この記事をまとめると
■筆者の原点となった「ハコスカ」との出会いからスカイラインへの思いを振り返る
日産の復活を願って詣でるべし! 神奈川県にある「日産ヘリテージコレクション」の「絶対見ておけリスト」を考えてみた
■排ガス規制で低迷したスカイラインは世界初のHICASと901活動によって復活を遂げた
■R32 GT-R誕生の裏には世界一を目指した日産技術者たちの執念と組織改革があった
自動車人生の原点となった「ハコスカ」との出会い
日本の自動車史において、日産スカイラインという名は常に特別な響きをもってきた。自動車ジャーナリストとなった自分にとっても、その存在はその後の人生を決定づけるほどの大きな原点となっている。
私が18歳で免許を取り、最初にハンドルを握ったのが「ハコスカ」の愛称で親しまれたGC10型スカイラインだった。当時、若者の心を捉えていたのは、日産のハコスカとトヨタのセリカ。世田谷の上馬にあったプリンスディーラーと、渋谷の神泉にあった東京カローラを前に、当時の私はもどちらを選ぶか激しく葛藤した。当時の価格はいずれも86万円前後。「女の子にモテそうだからセリカが欲しい」と考えていたが、「日産のほうが技術が上ではないか」という父親のひと言だった。
こうして手に入れた2リッター・ストロンバーグのシングルキャブ仕様のハコスカは、大学でも注目の的となり、クルマ好きの仲間が集まる一大ムーブメントの中心となった。このハコスカとの出会いを機に、私はラリーやレースの世界へ文字どおりぞっこんハマり込み、のちに自動車ジャーナリスト業を歩み始めることになる。
低迷の時代と反撃の狼煙となった「HICAS」
しかし、その後のスカイラインの歴史は平坦ではなかった。1970年代後半、昭和50年排出ガス規制の荒波が日本の自動車界を襲う。規制対応に追われたスカイラインは徐々にその牙を抜かれ、筆者のなかでも「4代目、5代目のころは記憶が薄れるほど、走りがしょぼくなっていった」と振り返る。
ジャーナリストとなった筆者が目にしたのは、広告代理店の言葉遊びのような「都市工学」という宣伝文句でPRされる、本質を見失ったスカイラインの姿だった(1985年)。当時の日産の開発現場は過去の栄光や歴史に関心が薄いように見え、7代目スカイライン(R31型)が登場した際には、「これが本当にあのスカイラインなのか」と大きな失望を覚えたという。
だが、その失望の最中に、日産の底力を示す「希望の光」が突如として現れる。日産の中央研究所が開発した、世界初の四輪操舵技術「HICAS(ハイキャス)」の実用化である。リヤのトー(タイヤの向き)を油圧でアクティブに制御するこのシステムは、当時ポルシェ928のテストで独自の「バイザッハ・アクスル」を知り尽くしていた筆者をも驚嘆させた。
そしてこのシャシー技術のブレイクスルーが、1989年、伝説的な8代目「R32型スカイライン GT-R」の復活へと結実する。レース仕様で650馬力を誇るハイパワーと、高度な4WDシステムを組み合わせたR32 GT-Rは、当時ポルシェの最高峰テクノロジーの結晶だった「959」に比肩するスーパースポーツとして誕生。「日産は本当に世界一になる」と確信させるほどの衝撃を世界に与えた。
円高の苦境と技術者たちを突き動かした「901活動」
このR32誕生の背景には、日産が組織の存亡をかけて挑んだ、壮絶なドラマがあった。元日産の技術者である伊藤修令氏は、1980年代半ばの凄まじい「量から質への転換期」をこう証言する。
当時の日本車は、安さと燃費のよさを武器にアメリカ市場で躍進していたが、それがゆえに激しい貿易摩擦を生み、輸出の自主規制という重い足枷を嵌められていた。さらに急激な円高が会社を直撃し、ただ大量生産して輸出するビジネスモデルは崩壊しつつあった。
欧州の販売現場からは「メルセデス・ベンツやBMWと対等に戦えるクルマが欲しい」という声が上がっていたが、当時の技術力では「そんなことできるわけがない」と突き放すのが現実だった。他社を見渡せば、トヨタはセルシオ、ホンダはNSXといった高付加価値なフラッグシップの開発へ舵を切っていく。日産もまた、国内市場で生き残るために、これまでにない高い付加価値をもったクルマ作りを迫られていた。
日産の市場シェアは1976年頃から30%を割り込み、右肩下がりが続いていた。この危機に、1985年に就任した久米 豊社長のもとで大規模な風土改革が断行される。「お客さまが本当に満足する商品を作り、そのために開発手法も会社組織も変える」。この強力なトップダウンと、現場の「世界のトップを見返してやる」という執念が結びつき、1986年の暮れ、伝説の「901委員会」が発足する。1990年代までに技術で世界一を目指すという、いわゆる「901活動」の始まりである。
じつは、日産のシャシー設計部門には古くからの「悔しさ」があった。1970年代、欧州に輸出した日産車は、速度無制限のアウトバーンにおいて「直進安定性がまるでお話にならない」と酷評されていたのだ。現場は1978年の時点で「高速コンセプト委員会」を立ち上げ、250km/hで巡航できる足まわりを必死に研究していた。しかし、当時はその最先端の研究を市販車の足まわり(セミトレーリングアーム式サスペンション)の抜本的な刷新へと繋げる組織のパワーがなく、ジャーナリストからも他社との遅れを厳しく叩かれ続ける日々が続いていた。
長い間、研究のままで眠っていた「アウトバーンで世界と戦う」という技術者たちの意地と、会社を挙げての風土改革。このふたつの奔流が1985年からのR32開発においてついにひとつとなり、あの圧倒的なGT-Rの覚醒へと繋がっていったのである。
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みんなのコメント
そもそもその70年代のケンメリ〜ジャパンが1番売れたスカイラインだったので、寧ろスカイライン黄金期だった。
その後マークⅡ三兄弟にゴッソリ顧客を奪われたので、R31で取り返しに行ったのは当然では?
あと記事で絶賛しているR32はR31よりも販売台数を減らしている。
性能と品質的にはR32で大きく飛躍したとは思うけど。
日産は70年代後半より日米貿易摩擦に対応するため、当時の石原俊社長肝入りの「グローバル10」(世界シェア10%を目標)を掲げ、積極的な拡大政策を採りました。1985年に会長職に退きましたが、強い影響力を及ぼしていたようです。後任の久米社長も積極路線を開発の最前線に適用したように見えます。
R32の開発で主管を務めた伊藤氏の著書には、先代のR31で味わった苦渋のリベンジとして“超感覚スカイライン”を造り上げた過程が詳細に綴られています。
結果としてGT-Rも含めて高い評価を得ます。しかし後継のR33以降、市場環境の変化により失速し始め、バブル崩壊と連動するように日産の経営状況が悪化します。
不朽の名車を生み出したが、経営改革は果たせなかったように感じます。