日産 スカイライン ハイブリッド のみんなの質問

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フェルスタッペンやハミルトンのレベルの実力があっても、世界には、
①運がなかった。
②タイミングが悪かった。
③ポジションがなかった。
④ スポンサーが付かなかった。
⑤ 資金が無かった。

などの理由で、F1ドライバーになれなかった人はいますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

ハミルトンのレベルだったかどうかは、実際にF1に乗っていないので判りませんが。
明らかにF1に乗る可能性があったのに乗れなかったのは、日本人だと風戸裕と生沢徹。
中島悟以前に、F1に最も近付いた2人です。

※風戸裕は、1970年代前半、『F1に最も近い日本人』と言われていたドライバー。
1974年シェブロン(英国の名門レーシングカーコンストラクター)のワークスチームのセカンドドライバーとしてヨーロッパF2参戦が決定していましたが(この時のファーストドライバーが、あのジェームズ・ハント)、この年のFISCO(かつて存在した富士スピードウェイ。現在のFSWとは違います)でのGC第2戦、30°バンクで黒沢元治と北野元の接触事故に巻き込まれ、死亡しました。
この事故がキッカケとなり、FISCO名物30°バンクが閉鎖されました。
尚・・・風戸はシェブロンと契約前、マーチ(当時のF2~F3で圧倒的な強さを誇ったチームで、1970年からF1にも参戦していました)とも契約交渉を行っていて、しかし後の超大物ドライバー=ニキ・ラウダにシートを取られます。
もし風戸が事故死せず、F2でハントやラウダと戦って同様にF1にステップアップしていたら、映画『ラッシュ』(ハントvsラウダ)に出て来たかもしれません。
あの映画は、ちょっと複雑な気持ちで観ました・・・。

※生沢徹は、プリンス自動車のワークスドライバーの最後の一人。
1964年の第2回日本GPで、タクシーにチューニングエンジンを搭載した様なプリンス・スカイラインGT(後のGTB)が、本格的レーシングスポーツのポルシェ904を抜いてトップを走り、それが『スカイライン伝説』の第一歩となりますが、あの時のスカイラインのドライバーが生沢です。
プリンス解散後、自己資金で英国に渡り、1968年にはウイリアムズのF3チームから英国F3に参戦、年間5勝を上げて欧州で注目され、ポルシェのワークスチームにも招かれました。
がしかし。
日本から持って行った活動資金¥1千万をフランク・ウイリアムズに騙し取られ(フランクに『F1のシートを用意する』と言われ資金を提供しましたが、そのカネでフランクはもう1台のマシンを用意し、別のドライバーを乗せました)、英国でのF2参戦が継続出来なくなり、日本に帰ってきました。
後にフランク・ウイリアムズが交通事故に遭い車椅子生活となった時、生沢ファンは『天罰だ』と思いましたよ。

その他の回答 (1件)

  • 期待されてもF1ドライバーになれなかった人は数多くいますが、
    マックスだってハミルトンだって、F1に乗る前にはここまでビッグになるかはわからないです。
    乗せてみたら凄かったということだから、事前に同じレベルかどうかはわかりません。
    現在期待のアントネッリだって、実際にレギュラーになってからは未知数です。

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