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コラム 2015.9.23

【Honda F1 夢の軌跡】第3回 F1挑戦を実現するキーマンたちの存在

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1949年(昭和24年)10月に、FIA(国際自動車連盟)がF1ワールドチャンピオンシップを制定し、欧米先進国を中心として各国でそれぞれに開催していたグランプリは、翌1950年からF1世界選手権に一本化されて開幕した(記念すべき1950年の第1戦はイギリスGPで、優勝はアルファロメオ・ティーポ158のジュゼッペ・ファリーナ。彼は初代チャンピオンになった)。オートバイ・グランプリのワールドチャンピオンシップは、1949年開幕なので、F1グランプリはモーターレーシングにおけるふたつ目の世界選手権ということになる。

このモーターレーシングの大きな国際動向を本田宗一郎が、その時点で知っていたかといえば、(現在の本田宗一郎研究ではそのことを裏付ける資料は発見されていないが)おそらく知っていたと思われる。

ホンダが1954年にマン島TTレースへの挑戦を表明したとき(つまりホンダレーシングがモーターレーシングへの挑戦開始を表明したとき)、本田宗一郎は「宣言」を発している。

「宣言」が発表された1954年(昭和29年)は、ホンダ創立から6年目だ。アジア全域で800万人以上が死んだという15年間の戦争の、日本敗戦からまだ9年しかすぎていない。もちろん、日本のモータリゼーションはまだ始まっていない。庶民がクルマを所有することは不可能だと思われていた時代だ。F1グランプリの歴史でみれば、この年に〈いぶし銀の走り〉で目利きのレースファンに人気があったイタリア人レーシングドライバーのリカルド・パトレーゼが生まれている。

その時代に発せられた本田宗一郎の「宣言」冒頭の一節にこうある。

〈私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。〉

ここで言う〈幼き頃〉とは、いつか。宗一郎が初めてカーレースを見たと推測できるのは、1917年(大正6年)で、10歳である。当時の日本でスターとなっていた曲芸飛行士のアート・スミスは、数万人の観客を集めた浜松興行の余芸で、10馬力の空冷V2エンジンをフロントに搭載した小型レーシングカーによるエキシビション・レースをやった。このレースを宗一郎少年は見ているはずなのだが、このレースについての宗一郎の発言はひとつもみつかっていない。

その次にレースに触れるのは(前号で書いたとおり)16歳で東京のアート商会に奉公に入った後である。このときは日本で自動車専門誌の刊行が始まっていた時代であり、そこには欧米で開催されているグランプリレースなどの記事が毎号掲載されていた。欧米から輸入された多くの自動車専門誌も、宗一郎の手の届くところにあった。1930年(昭和5年)に多田健蔵が、イギリスの伝統的オートバイレースであるマン島TTレースに日本人として初出場していることを考えると、この時代のレースの通人たちは、現代の我われが想像する以上にモーターレーシングの国際的な情報に触れていて、欧米のレース業界の状況をよく知っていたと思われる。

そうなると宗一郎少年の〈幼き頃〉とは16歳、1922年あたりからと考えるのが妥当だ。世界のレース事情を知り、それを制覇してやろうと思った。まさに子供らしい夢であるが、40年後にそれを、まずオートバイで実現してしまうところが本田宗一郎という希代の技術者たる所以だ。

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